NOHC理事・北原奉昭「故郷・伊那の大自然を駆け回った少年時代」4・・・ガキ大将時代の武勇伝、冬山登山

Part4


Q ガキ大将の武勇伝を一つ二つ…。

ありますよ、いっぱい。
たとえば、うちの近くにね…。うちは800mか850mぐらいの標高だけど、すぐそこに、三界山(みつがいさん)っていう山と、それから場広山(ばびろさん)。あともう一つ高烏谷山(たかづやさん)って、伊那山脈から南アルプスにかけての小さな山脈なんですね。そこがだいたい1300m、1400mぐらいなんだよ、標高が。その1400mっていうのは、こう切り立ってんだよね。で、北側を向いてるから、雪がなかなか溶けないの。そすと、その雪が溶けないところを上へ登って。

寒中休みっていったら一月の末だよ。それから二月の上旬にかけて一番寒い時ね。寒中休みっていうのが五日間ぐらいあるんですよ、寒いから。学校の休みがね。夏休みはその代わり二週間くらいしかないから。その寒中休みの時に、あれは忘れもしないけど、南極探検隊がね、海鷹丸(うみたかまる)っていうのがあって、まだ正式な南極観測船ではなくて、予備観測船なんだよね。予備観測船の海鷹丸ってのが南氷洋に行ってるんですよ。本観測の前の年だと思いますよ。で、そん時にその海鷹丸は南氷洋で氷に閉じ込められちゃうんですよ。で、脱出できなくなっちゃう。そん時に忘れもしないけど、ソ連の砕氷船の「オビ号」っていうのがいて、これが高性能だった。で、オビ号が助けに来た。氷を割って。それで海鷹丸は脱出するんだけどね。ちょうどその年だったね。

その場広山の山麓は氷が張っちゃうんですよ、寒いから。さっき言ったサンショウウオがとれたところですよ。その下が氷になっちゃって、滑るぐらいですごい。その大氷原をね、子どもたちが五、六人で登りましたよ。僕が「大氷原」っていう名前を付けたんだけどね。大氷原を超えてその急傾斜の場広山っつうところを登るわけ。アタックですよ。五人くらいだったと思うね。中学一年くらいかな。

Q 真冬の?

真冬。

Q 場広山。

極寒。

Q 北面?

北面。登ったけど、それが手袋もするかしないかのような感じですよ。
最初は良かったんだよ。ところがね、ほぼ山頂にかかった時、山頂直下のところが吹き溜まりで、このぐらい(胸のあたり)まで雪。もう前にも進めない。もうすーごい大変でしたよ。だけどもう上に登るしかないわけですよ。それで掻き分けながら五人全員、上に登った時が午後三時ぐらいだったと思うね。午後三時になるともう日が短いから太陽も沈みかけてるし、もういつ暗くなってもおかしくないギリギリの時だったですよ。

そん時にみんなでね、白樺の木が上にあった。で、白樺の木を切って、ソリを作ったんだよ。枝ですよ。枝の上に乗っかるわけ。白樺を二つ束ねて縛り付けてね。帰るに帰れないわけですよ、もう。それで「ソリで一気に下るしかない」って決断を下したわけ。この急傾斜を一気に。雪もあるからね、「一気に下ろう」っていうことに結論が達してね。その山の上から白樺の木で作った、ただ単に木を切っただけなんだから。その上に子どもたちが五人ぐらい乗っかって滑り降りたの。そすと、たった五分ぐらいで来ちゃうんだから。三時間か四時間登ったところが五分ぐらいで下りてきちゃった。

Q すごいスピードが出たんですか?

すごいスピードが出た。だけど、ケガをするスピードにはならない。雪が積もってるから。ほどよいブレーキがかかってんだよ。

Q 新雪で?

新雪で。あれすごかった。一気に滑り下りて、それで時間内に到着しましたよ。

で、翌年またチャレンジするんだ。その年はコースを変えて、新山峠(にいやまとうげ)という峠の方をまわって下山したんだけど暗くなっちゃってさ。もう夜七時ぐらいになっちゃってね。真っ暗ですよ。同じ時期。
それで一人泣き出しちゃってね、気の弱いのが。「泣くんじゃねぇ」とか言いながら、もう下の集落の所まで下りたのが夜の八時ぐらいだったと思うね。やっぱそれも五人ぐらい。

それで同級生の女の子の所に行ってさ。お腹がすいちゃってて。で、餅かなんかをもらってさ。生の餅だよ。焼いてない。あれ食べながらね、うちに帰ったの覚えてる。今だったら、あんなこと、大変なことですよね。行方不明でさ。

Q 帰ってからは怒られた?

怒られたみたいな気もするけど、当たり前のことというぐらいに思ってたかもしれない。でも今でいったら大変なことですね。大変なこと。遭難ですよ、遭難。

Q 一回目に白樺の木を切ってソリにしようって言ったのは北原さんですか?

うん、俺。

Q それでできると思ったのは、以前に経験があったんですか?

木を切ってソリにしようというのはそこで思いついただけ。「これなら滑るんじゃないかな」と思ったね。白樺の木っていい具合に枝が出てんだね。滑りやすく。上に向かってんだよね、こう。切っても抵抗がいいんだよね。うまい具合に。上の方に向かって箒みたいに枝が生えてんの。それがやっぱりいいんだよね。

Q 枝を切って、二本まとめて、それにまたがって?魔法使いみたいに?

そうそうそう。

Q 「行くぞ!」って言って標高1400mから…。

そう、滑り降りた。

Q (笑)。すーっと。

すーっと、滑ったねぇ。

Q 途中で転倒とかは?

大丈夫、大丈夫。結構な斜面ですよ。そうでないと滑らないんだよね、またね。

Q 緩い斜面じゃ逆に滑らない。

かなりの斜面でないと滑らないよね。かなりの斜面なんだ、これが。

Q スピードが出る。

いい感じなんだ、ブレーキかかってね。

Q 滑ってるときはどんな様子でした?

全然、喜んでました、みんな。

Q 「フーッ!」とか言って?

うん、そうそうそう。

Q 目にした光景も覚えてますか?

覚えてる。今だとね、木も少しは生えてんだよね。だから少し変わってるかもしんないけど、もう最高ですよ。夢にも見ますよ、今だに。最高のね、滑りだった。

Q ジェットコースターどころじゃないですね。

そうそう、本当にすごかった。

 

山火事を未然に防ぐ

あと危険な思いしたのはね。その時もやっぱり結構大変だなと思った。
小学校の六年生の時にアルバイトで…焚き木って当時いっぱい作ってたんだね、田舎だから。山ん中だから。焚き木を車が来るところまで運び出すと、一把十円とか五円とかね、三円とかくれるわけさ。そのアルバイトを三月の休みに、卒業休みの時に「みんなでアルバイトやろうじゃないか」って、それも三、四人でやったんだよね。
一輪車っていうのに乗せて上の方から持ってくるんだけど、すごい急な斜面を来ると、一回三円とか五円になるわけ。だから一日やってると何百円とかになるわけですよ。

それでアルバイトした時にお昼をみんな食べるんだね。お昼を食べて休みを取って、また午後の仕事を始めたわけ。四、五人で、仲のいい中山もいましたよ、上の方まで行くわけ。行った時にね、お昼食べたあと、火を焚いたんだよ。火を焚いた所に火種が残ってた。川の近くではあった。ちっちゃな川ね。本当にちいちゃなチョロチョロ川の近くで焚いたんだけど。で、上から見たら火が出てるわけ。「これはまずい!」っていう思いますよね。僕もちょっと責任者みたいなもんだから。「火事だ!火を消せ!」っつってね。みんな一輪車ほっぽりだしてね、こんな(急な)崖ですよ。崖を一目散でみんなで下ってね、そこの昼飯食べたところまで来たわけ。

それで消すわけ。消すんだけど、春先だから芝生があるわけです、枯れた。パッとやるとさ、こうやると火って飛ぶんだよ。本当に飛ぶの。ほんとに30cmくらい飛ぶんだから。パッとこっちいってね、火がまたこっちで燃えだしちゃうわけ。こっちでやると、こっちまた飛ぶわけ。どんどんどんどん広がっちゃうわけよ。そん時にね、春先の火事が多いの、なぜ多いかっていうのをまさに実感したわけ。
で、みんなに「水だ!」ってさ。「弁当箱だ!」っつってね。弁当箱でそのちっちゃなチョロチョロの川から水を撒いたんだよ。それでね、消し止めた。でもあれね、あのまま気づかないで登ってったらね、大山林火災。

Q しかも下から火が追っかけてきたかもしれない。

そう。あれは肝を冷やした。でも大事なかったからね。その辺の芝生が燃えたぐらいで終わったから別にどうってことなかったんだけど、ああいう時の反応の仕方とか行動をどうするかっていうのは、すごいリーダーがいないとダメ。で、そのリーダーの判断が一瞬で判断ができるぐらいでないとダメだね。迷ってたら絶対だめ。しかもその他の人たちがリーダーの言うこと聞かないとダメなんだよ。指示に従ってみんながパッとやれるっていうのがね、やっぱいろんなことを防ぐんだろね。

Q やっぱり子どもながらにも、日ごろの人間関係ですよね。「ともちゃんが言うなら」…。

そうだね、聞いてくれるんだね。

Q 白樺のソリで滑り下りたときも「えー?」じゃなくて、「やろう!」って…。

そうなんだよね。

Q それで迷ってたり、「俺は歩いて下りる」なんてやってたら、こっちはこっちで成り立たないし、この子は…。

駄目(死ぬ)だね。

Q 日ごろから五人の仲間が…。

そうそう、仲間が絶えずこう…、やっぱり仲よかったんだろうね。

小学校四年生の頃(本人:中央)


(終了)

*ホームページ、小冊子、動画など媒体の特性や条件にあわせて編集し、一部表現を調整している箇所があります。
*オーラルヒストリー(口述歴史)はあくまで「個人の記憶」であり歴史を正確に伝えるものではありません。そのため、基本的に話し手の感じ方・表現・言い回しに基づいて表記しています。また、歴史的な事柄については諸説存在するものもあります。ご了承ください。

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源資NOHC 代表

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。中野区野方在住。

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