石田修さん「中野刑務所を米軍が接収していた頃」


石田修さん 2020年11月10日収録
昭和十七年生まれ、中野区新井三丁目に生まれ育ち、引越し後も同三丁目在住。野方東町会会長。
(聞き手:北原、源)

中野区新井にある平和の森公園。公園北西側(左上)の沼袋三丁目方面にかかる橋からインタビュースタート。
画像をクリックすると拡大します(なかの地図より)

改修前の妙正寺川

□ 平和の森公園 滝の広場前の橋にて

北原 妙正寺川は河川改修が行われて立派な川になったんですが、昔は暴れ川でときどき水害が起きたんですけれども、川そのものの変わりようというのはどうだったですかね。

石田 川はここになくてね、ここ。今、道路になってるところ、これが川です。こちら(現在の川のあるところ)は民家で、家が建ってたですね。

 

現在の道路が川、川の場所には住宅が建っていた(クリックすると拡大します)
 

それで沼袋の交番のとこからちょっと来ると、こういうふうに入り込んでんですよね。

北原 そこのところを右に曲がってく……。

石田 あれが川です。あそこを埋め立てちゃって道路にしちゃった。それで川をまっすぐにして、深くして、工事やってまっすぐにした。

昭和37年 中野刑務所付近航空写真(中野区提供)平和の公園には旧中野刑務所があった。
敷地の北側(上)、妙正寺川が蛇行しているのがわかる(クリックすると拡大します)

昭和50年頃の妙正寺川改修工事。場所は不明(中野区提供)
カーブは洪水時に護岸が削られ、越流の危険が増すため直線状に改修された
(クリックすると拡大します)

北原 そうですか。昭和三十年代に大きな台風が関東に上陸したことがあるんですが、あのときの状況はどうでしたか?

石田 私はそこに住んでたんですけど、床上1m以上(水が)上がったんですよ。それでもう二階に布団やなんかをあげたりして、一階はもう全部めちゃくちゃ。二階がなかったらどうなったかって思い出すたびちょっと嫌なんですけど、そんな台風がありました。
ここら辺一面、湖みたいになっちゃったですよ。家が点在してるのが浮いたようになってて。ですから私の家で床上1m以上でこのくらい(腰の高さ)まできたから、ここら辺だともうこのくらい(肩のあたり)になっちゃう。

北原 石田さんの方はちょっと(土地が)高かったでしょうから、こちらの沼袋の三丁目とか駅に方にかけては相当な被害だったですね。

石田 ええ。それでここのところ(平和の森公園の外周)はススキで、土手になってたんですよ、ずーっと。小さな笹、笹で土手を支えてたですね。

戦後、GHQ(米軍)が接収していた旧中野刑務所
石田 その上が、あそこ(平和の森公園の多目的運動広場)が広場になってましてね。当時、戦後、米軍が接収したんですね。その時に、そこの広場は米軍のヘリコプターがとまる場所だったです。

北原 そうなんですか?それは初めて聞きましたね。

石田 それで、ほとんど皆さん知らないけど、この敷地の中に養豚場があって、それは米軍の食料になった。我々はそういうものは食べられない。米軍の養豚場だった。ほとんどそれ記憶してる人、私ぐらいのもんじゃないですか。

※上記の航空写真参照。刑務所北側の塀と妙正寺川の間の土地にヘリポートや養豚場があったという(現在は多目的運動広場)

北原 米軍が接収してここを軍の刑務所にしたっていう話を聞いたんですが、そのアメリカ兵と、石田さんはまだ子どもだったのか…。

石田 もう小さい子どもで。

北原 その辺の交流なんかどうだったですかね?

石田 ちょうど私と十五歳違う兄がいたんですね。兄は私が五歳だとしたら二十歳ですよね。で、私七、八歳の頃よく覚えてんですけど、ここに刑務所の塀があって、上の方に歩哨がいたんですね。それは「MP」と書いたヘルメットをかぶった兵隊さん。そういう人と仲良くなってから、それでよくうちにアメリカ兵の人が遊びに来ました。

北原 そんなことがあったんですか?

□ 川が蛇行して右に入り込んでいた場所で

石田 これ川ですよ。今歩いてるところは、以前は川底。持ち上げちゃったけどね。ここ、島みたいな一角が、前は何か大きな瓶がいっぱい並んでてね。なんか作ってる工場だった。普通の民家が建ってるというわけじゃなかったですね。

北原 上流がこちらからで、ここからずーっと流れてきて、右に曲がってると。

石田 そうですね。

北原 ここがやっぱり大きく変わったんだ。

石田 中洲みたいな島みたいなね。で、工場があった。

□ 新道橋のたもとへ到着

↓新道橋から沼袋駅方面。米兵相手の飲み屋があった
北原 この通りは、今、区画整理事業というか拡幅の話があって、沼袋駅前に広場ができるとか、あと西武線の地下化ですよね。それが今、まちづくりの中の大きな課題になっておりまして。少し時期は延びましたけれども、地下化は完成する、と。で、そのあと、そこに見える黒い建物、交番の先のところですよね。そこに駅前広場ができて、ここから先も拡幅されることになっておりますけど、昔の思い出みたいなものはありますか? 

石田 ここのコンクリートの斜面、これは前からあったような気がする。これもう何十年ってたってる。あとこっち側(西武線と妙正寺川の間の区画)は全部変わっちゃった。そこら辺は米軍の人たち相手のバーがありましたね。

北原 今の沼袋駅の周りですか?

石田 (新道橋から駅に)行くまでにもね。

北原 行くまでにもあった?

石田 ええ、その辺から。

□ 平和の森公園の東側のバス通りを歩きながら

北原 平和の森公園のこの辺も竹やぶっていうか笹だったんですか?

石田 それで鉄条網で囲まれてたですね。中は入れないんですね。で、ここが米軍のヘリコプターが降りるとこ。

 そうすると日常的に音もすごかったでしょうね?

石田 その頃は、ヘリコプターが珍しくてね。音なんか気にしてないで、「いやぁ、すごい!」なんて言って。

 間近で見に行ったり?

石田 ええ、そうですね。

□ 平和の森公園東側の入口に到着

鉄条網の中に招かれ球拾いをしてお菓子をもらう

↓左の建物がキリンレモンスポーツセンター(中野区立総合体育館)
北原 ここは歴史はいっぱいあるわけですけども、特に中野刑務所とか豊多摩刑務所という時代もありまして、長い間そういった施設に使われてたわけなんですね。それで今、米軍が接収したということを聞きましたけど、その時の様子ですね。鉄条網で囲われていたという話と、ヘリコプターの話もありましたけれど、刑務所のことも含めまして思い出をぜひ。

石田 この公園の南東の方ですか。刑務所の門が記念に残されてるんですね。あれが移設するか、撤去するかって、今、話題になってるでしょ。あそこが門で、ずっとここら辺まで塀が…。どのくらいあったかな。(高さ)10mぐらいあったのかな。コンクリートの塀で覆われてたんですね。

で、中にレンガ造りの、空から見ると「×」になってる、兵舎みたいな牢獄、刑務所があった。それで、周りのところは芝生だったんですね。それで鉄条網で囲まれてて、中に入れないんですよ。一般の人は。

その時に、私、子どもの頃だから、鉄条網の外から中見てたら、米軍の偉い人っていうか将校ぐらいの人がそこの芝生でゴルフをやるんですね、練習を。それで私、鉄条網でこうやって見てたら、今でも覚えてんですけどね。「Hey! Boy-san,come on!」って。「Come over here!」って言ってるんですよ。で、子どもながらにね、「あぁ、なんか呼んでんなぁ」。英語わかんないけど、わかるんですよ。それでもって向こうがね、鉄条網、開けてくれてね。「中入れ」って言うんです。そうしたら米軍の将校たちが、向こうの方にクラブ持っててみんな(ゴルフボールを)飛ばしてるんですよ。ずっとここら辺まで玉が来て、それで「ボール箱に玉を拾え」って言うわけ。それで一生懸命、私、一応許されて中入ってますからね。ゴルフの球を拾って、一つが1ダースぐらい入りますかね。こんなにね。一生懸命、子どもながら抱えて持ってくと、チューインガムとかチョコレートとか、そういうのをくれるんですね。
その頃やっぱしお菓子なんて、チョコレートなんて食べられない時代ですから、もう非常に価値があったですよ、子どもの頃は。だからそのチョコレートが欲しくてね。よく米軍の人たちがゴルフをやる頃に鉄条網に来るんですよ。案の定また「入れ」って言うわけ。それで球拾いやって、ビスケットとかチューインガムとかいろんな子どもが喜ぶようなもの、ずいぶん私もらって。まぁ、アルバイトじゃないですけどそんなことをやって…。家計を支えたほどではないけどうちへ持ってってね、兄さんや姉さんにあげたりしてね。

北原 貴重でしたからね、当時はね。

石田 そうそう。それで「自分も大きくなったらゴルフやるような生活になっかなぁ」とかね。あと、こういうふうにアメリカの人、外国人と英語喋れてね。「大人になったらそんなのになりたいかなぁ」なんて。五、六歳の頃そんな夢持ったですよ。でまぁ、大人になってみてね、こないだまでゴルフもやってたし…。

北原 英語もなかなか達者ですもんね。

石田 いやいやいや…。

北原 その頃にもとがあったんですね。

石田 それで「少しは国際感覚っていうのも身に着けなきゃいけないなぁ」なんてその頃と思ったりなんかして、かなり英語には興味あったですね。そんな思い出がありますね。今の人生に少しは影響ありますね。

北原 あと、今、ここが多目的広場になってますけれど、ここは兵舎からは外に出た部分になってるわけですかね?

石田 そうですね。先ほども言ったようにヘリコプターの発着場っていうか。小さな飛行場プラス、空き地は芝生になってたですね。で、その後日本が…。

北原 戻してもらって中野刑務所になったんですね。

刑務所が返還されてからの出来事

石田 中野刑務所になったですね。そこで今度、日本の刑務所になってからも、刑が満期に近くて、模範囚人みたいな人を外に出して、ここら辺で作業やってましたね。その時に昭和三十三、四年ですかね。五、六年かその頃、そこの作業で働いてた人が、囚人が看守を殺してね。仮設トイレの中へ証拠隠滅じゃないけど入れて、脱走したというようなことありましてね。で、私は学校から帰ったら「今、大変だからね。外行ったら危ないから家にいろ!」なんてね。そんな思い出すのもちょっと嫌なようなね、変な事件も。刑務所の周辺に住んでましたから、そんな嫌な思い出もありました。でも、今こうやって公園になったから良かったかな。

 石田がお生まれになった新井三丁目というのは、公園の向こう側(南側)になるわけですか?

石田 そうですね。今建ってるビルありますね。

北原 下水処理施設。あの向こう側?

石田 下水処理場の裏側に住んでました。(小学五年生で)1kmも離れてないところへ引っ越して参りまして。ずっと私、「刑務所周辺で育った人間」、そういうふうに言わると嫌だから、今、「公園のそばで住んでる人間」(笑) 

□ 平和公園通りを中野方面に移動。保存されている門が見える場所に移動

北原 ここ行くと門が見える。

石田 門はあそこにあるんだけどね。ここはもう刑務所の中だからね。ずーっとここコンクリートだったの。

北原 塀がね。

石田 あの建物(キリンレモンスポーツセンター=中野区立総合体育館)もまるっきり塀の中。

昭和初期の豊多摩刑務所(のちの中野刑務所 中野区提供)
クリックすると拡大します

□ 少し歩いて中野刑務所の通用門付近

さながら”米軍基地の縮小版” ナイトクラブやプールがあり週末は賑やかだった

石田 その塀が、もっとその倍ぐらい高いのを、ユンボ(パワーショベル)もってきてガーッて上の方は半分ぐらい取っちゃったんですよ。それが刑務所の塀です。それで、ここがよくジープが出入りしてた。で、歩哨が、両端にMPが立ってた。ここ通用門。それで少し行くと刑務所の入り口。

そこで左側に、日本に移管された後、こっち側に売店があって、そこで囚人の差し入れやらちょっとした書類書いたりなんかして、そういうお店、代書屋みたいな。それで書類書いてそこで買い物して、こっち側の正門のところで受付して、家族が中へ入ってく。そういうふうになってたですね。

米軍がいた頃は、ここ入っていくと、左側はプールがあって、今で言えばナイトクラブみたいね。米軍だけのナイトクラブがそこにあったんですね。中で米軍がお酒飲んだりして…。

北原 ダンスしたり…。

石田 そうそうそう。で、やっぱり日本の若い女性なんかは特別にそのナイトクラブへ入れるわけですよ。それで盛大に、土曜日の晩、金曜日の晩なんか、ナイトクラブがかなり賑わってたねぇ。で、夏はプールがありますからね。だから米軍の看守っていうか、米軍の兵隊さん達は基地の街ですから楽しんで、十分。
中は地獄・牢獄だか知らないけど、囚人が入ってたってことですね。本当にここは沖縄の基地みたいないうような感じだったですよ。

それで米軍相手の飲み屋とかね。そこら辺もずーっと飲み屋が、早稲田通りに行くまでやっぱりお店があって。

空砲を使った野戦訓練

それで私なんかは裏の方で遊んでたから。米軍も軍隊の中で悪いことしたのを入れといたわけだけど、場合によっては刑の軽い人は外へ、元の軍に戻すわけじゃないですか。そのための野戦訓練みたいのも、裏の方でやったんですよ。

北原 野戦訓練まで?

石田 ええ、囚人の。で、空砲で撃ち合うんですよ。私なんか夜こっそり、親が止めるのも聞かずに見に来たですよ。そうすると戦闘さながらな訓練やるんですよね。それで中には、そういうところで薬きょうをボロボロ落とすんですよ。向こう(米兵)拾わないんですよ。あれ、真鍮(しんちゅう)がね、いいお金になって…。

北原 売れましたね。

石田 売ってる人もいた。お金にする。私なんかは、相馬ヶ原の方で、あの付近の家庭の主婦が薬きょう拾いに行って米軍に撃たれて殺された事件あったんですよ。そんなようなのもちょっと新聞見ると、「あ、それに似たようなものだ」。(ここは)死者は出ないですよ。だけど薬きょうがバラバラバラバラ落っこってて、それ拾ってクズ屋さん持ってく人もいたんですよ。そんなような思い出もあったり。もうほんとにね、基地の縮小版がここにあったというふうに私は思い出あります。

□ 平和の森公園の南東の角まで来て

石田 こここからずっと鉄条網の塀で、ここら辺にプールがあってね。ここギリギリくらいまで米軍のナイトクラブ。

□ 石田さんの生家があった場所

石田 生誕の地はここ。この辺。

北原 じゃすっかり変わりましたね。

石田 なくなっちゃった。

北原 これが小学生の時に通った道? 当時はどうでしたか?

石田 ここまで道路も含めて全部、米軍の敷地ですね。

北原 この道路まで? それでこの道路の分だけ(敷地を)あけてくれたんだ。

石田 それでここ、鉄条網張ってあるでしょ。夜なんか鉄条網の間から見てると、煌々と明かりがついて、中でダンスホールとかナイトクラブが見える。それで中では、時々、映画上映してるんです。みんな飲みながら映画を見てる。

北原 憧れちゃいますね。

石田 それでいろんな映画、そこで見れるんですよ。ほとんど西部劇、だいたいジョン・ウエインかゲーリー・クーパーが主演。

北原 映画館あり、ナイトクラブあり、プールあり。

石田 ここら辺、米軍の娯楽施設。だから占領してても、居心地は良かったんじゃないですか。

北原 そうでしょうね。

石田 うん、ほんとに変わっちゃった。

 音も賑やかだったのは筒抜けだったんですか?

石田 あぁ、筒抜けだね。誰も文句言わない。

北原 言えないよね。

石田 マッカーサーに逆らったら大変だよ。日本の警察だってミリタリーポリスの前では全然歯が立たないよね。

□ 平和の森小学校の正門前で

二部制もあった小学校時代

北原 旧野方小学校ですよね。今、平和の森小学校と統合によってなりましたけども、母校ですよね。

石田 はい、そうです。

北原 どうですか?

石田 これも前は木造校舎で、それから鉄筋に変わって、今度これももうすぐ壊しちゃうんですね。刑務所の跡地に移動しますから。いろんな面でここら辺、本当に思い出ばっかしあって、すべての思い出がみんな変わっちゃた。

北原 石田さんの小学校の頃っていうのは児童数は多かったんですか?

石田 だいたい一クラス五十名で四組で、いっぱいなんですよ。そうすっと四×五=二十で、一学年が二百人ぐらい。二百人の六倍ですから千二百人ぐらいいたんですね。それで、二部制も少しやりましたよ。午後から学校なんていうそんな思い出もありますね。学校に入ると、桜の大きな木が、八重桜の木が二本立っててね。

北原 (今の残っているのは)そのうちの一本ですかね?

石田 そのうちの一本じゃないかと思うんですね。だいぶ年季は入ってる。

北原 年季が入ってますね。

石田 ここ入る時に桜の木があって非常に良かったですよ。

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北原 どうでしたかね? 今日の取材。

石田 今、沖縄とか取材盛んにやってますよね。ひめゆり学徒隊に参加した人がまだ生きてたりして、「ちょっと思い出語ってください」なんて。あれもやっぱし「ああいう事実、歴史を消しちゃいけない」「昔、こういうことがあったんだから」ということを後世に伝えたいために一生懸命やってるじゃないですか。「やはり中野もそうあるべきかなぁ。そうあったらいいな」という気持ちは、私、心の隅にあったんですよ。

北原 ありがとうございます。まさに我々と同じですね。

石田 それで今回、北原さんに紹介されて、それなら本当にできる限り協力したいなと思って。一生懸命ね、もう歳ですけど、脳の活性化にもつながると思うんですけど、昔を一生懸命、思い出していたところでした。

北原 まだ続編があるかと思いますけど、引き続きよろしくお願いします。

(終了)
 

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源資NOHC 代表

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。中野区野方在住。

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