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渡辺勲さん「家業・酒屋の手伝い、遊び、みつわ通り」1 家業・酒屋の手伝い
- 2020/11/26
- 渡辺 勲さん(中野区野方), 話し手
渡辺 勲さん 2020年11月26日収録
昭和24年(現在の)野方五丁目生まれ。中野区立北原小学校、第六中卒業。
高校卒業後、家業の酒屋を継ぐ。野方南自治会長。
家業・酒屋の手伝い
Q お父さまがいつ頃野方に来られたか、その辺りのお話を。
私の父は、山梨県から高等小学校を出て、新井町の大森さんっていうお米屋さんに丁稚みたいな感じで入った。なんか、遠い親戚だったらしいんですよね。そして昭和六年に、今の私が生まれたところ、野方五丁目に。炭だとかいろんなものを売った商売をしたんですよ。で、昭和二十三年に酒販免許を取って酒屋になったんですね。私は二代目だったんですよ。
Q 昭和二十三年に酒販免許を取ってそこから酒屋がスタート?
そうです。その前は雑貨みたいのを売ってたらしいんです。そんで、そっから兵隊にも行ってるんですよね。そんで父親が満州にいまして、で、運がいいことに本土決戦で高松(松山)へ来てたんですよ。だからシベリアへはもってかれてないんですよ。だから実に運のいい人で。だから、シベリア行ってたら、私、いなかったかもしれないですね。
Q お父様のお生まれは?
大正元年です。十一月ですね。だから明治と大正との境ですね。
Q 扱っていた品物は?
炭だとか、それからちょっとした食料品とかそういうものを扱ってた、と。だから炭がけっこう、炭とか練炭とか炭団(たどん)とか、そういうものは結構商ってたみたいですね。だから酒屋ん時も、炭もたどんも売ってましたよ。だから配達先行って、切ってましたよ。炭を切ってあげる。それもサービスして切ってましたよ。それよくくっついてたもんですよ。その炭の粉を集めてたどんにしたりしたんですよね。
Q 炭団が…(-_-;)。
たどん、わかんないよね。練炭の丸くしたようなやつですよ。粉を何かで集めて、それを何かで固めたんでしょうね。豆炭って知ってます? 豆炭の大っきいやつですよ。
昔はまだまだガスが普及してない時でしたから、薪(まき)だとか、そういうものでね、食事の用意してましたからね。
Q お父様が最初、新井のお米屋さんにというのは、商売の修行なんですか?
うん、そうでしょうね。
Q お米を扱うことは?
お米はやんなかったですね。結局、野方に来た時は、もう炭がほとんどだったみたいですね。
Q お父様は長くご商売をやられてたんですか?
そうですね。でも早いとこ、私が高校卒業してからすぐうち入っちゃったし、弟が二年後にやっぱり店手伝ったから、もうすぐにご隠居さんでしょ。六十前からご隠居で。だから羨ましい話ですよ。
Q 渡辺さんは昭和四十年代前半ぐらいからお手伝いしていた?
そうです。もうすぐに就職はうちです。みんな、我々の時はもうほとんど、(家業の)あとを継ぐ。私は本当はね、自衛隊(の機関士)に行きたかったんですけど、行かしてくれなかったですね。長男だからどうしようもないっていうんで。
Q その当時のご家族構成は?
両親と姉と私と弟ですね。五人家族です。
Q 正式に渡辺酒店に入られる前からお手伝いはされていた?
もちろん。帰宅部です。クラブ、美術部に入ってたんですけど、高校時代は。もう一年でもう無理ですね。もう車の免許取らされて、トラック買わされて、買ってくれて。それで帰って、配達待ってんですもん。だから、おふくろが大変なんで、もうまっすぐ帰ってきましたよ。もう高校二年生からはね、ずーっと。
Q 高校二年ということは十七歳くらいから?
そうですね、そうですね。
Q 配達はバイクですか?
もちろん(ホンダの)カブもあったし。だから高校三年かな、普通免許も取って。それでうちの親父、免許持ってなかったけど、カローラのライトバン買ってくれましたよ。それ乗ってましたよ、高校生で。それで学校も通ったりもしてましたよ、けっこう。それから車が好きになっちゃったですね。
何でも量り売り
Q 最初にお店の手伝いは何から?
店番ですね。もう小学校から店番させられましたよ。
Q お会計もする?
もちろん。レジじゃなくてね。こんな箱があって、それを…。
で、一番難しかったのは、お酢でも醤油でもなんでも、みんな量り売りなんですよ。お酢とか醤油とかってのは樽で、樽に「呑み口」ってやつがあって、それをキュッとさして、それで木のやつで抜いて、栓を抜いて枡に入れるんですけど、難しいんですよ、それが。キュッとね、棒がささるんですよ、丸い棒が。吞み口っていうんですけどね。樽だけできて、その吞み口っていうのはうちの親父が「サンボンギリ」っていう錐で穴あけて、ほんでこう木槌で打ってくんですよ。で、栓をするんですよ。で、こう栓を抜くんですよ。そすとシャーッと出るから。それも抜いちゃったらドーッて出ちゃうから、少しずつチョロチョロと出しながら。でもうちの親父やおふくろなんかはうまいですよ。キュキュッてとめますよね。それが出来なかったですね、なかなか。
Q 小学生の時?
ええ。でも、やらされましたよ。塩だった砂糖だって、みんな量り売りですよ。塩なんか、菰(こも)でくるから。藁がいっぱい入ってんですよ、塩の中に。その藁を取らされる。なんでも量り売り。
その当時、うちのおふくろが言ってたのは、「日本酒ニ、三本売ればご飯食べられたよ」って。一日、ご飯は食べられましたよ、と。そのぐらいの利益があったんですよね。
Q 酒が貴重で高かった。
そうですね。日本酒は高かったですよ、やっぱりね。
Q 小学生でお手伝いをしていたのは昭和三十年代の頭くらい?
そうですね、頭ぐらいですね。もう何しろあの頃は皆、どこの商店の子どもみんな手伝わされましたよ。だからもうほんとは、商売が大っ嫌いだったんですよね。だから私の代でやめちゃったけどね。結局ね。
でも、また面白い話があって、みんな量り(売り)でしょ。そして、そうすとこういう白い瀬戸物に、じょうご(漏斗)があって、それに枡で計ってお客さんに、ビンに入れますよね。そしたらそれが、しずくが垂れるから壷にこう入れるわけですよ。そすと長い間に結構のしずくがで垂れますよね。そすと、酒類はその壺。他のものは違うとこで。それが溜まると、それが売れたんですって。私はそれはよく覚えてないんですけど、そういうものまで売れたという時代があったですよね。
Q 少し安く売る?
まあもちろんね。で、その頃はもう皆さん、立ち飲みしてましたからね。角打ち。今でもやってるとこ、ありますよね。新宿あたりじゃやってますよね。
Q どんな雰囲気でしたか?
私は嫌だったですね。酔っ払いばっかだった。
Q 小学校の頃?
そうです。まあでも私の代でも、やっぱり角打ちやってましたよ。要するに、売れなくなったお酒、例えば、ちょっと有名じゃなくて売れないお酒があって、それ全部潰せるから、角打ちは酒屋にとっちゃ、よかったんですよね。ただ、接待をしちゃいけなかったんですよね。飲食業じゃないから。税務署の管轄ですから、税務署の話では接待をしない。要するに低所得者のための立ち飲みだというんで、酒屋が立ち飲みさせてんのは目をつぶってくれてたんですよね。今でもそういうのは残ってんですよね。ただ、つまみは出しちゃいけないとかね。接待しちゃいけないとか。
でも、ピーナッツのちっちゃいの、ちっちゃな袋に入ったのとか、そら豆みたいなやつが置いてありましたよね。それは、一個五円だか十円だか知らないけど。それで勝手に食べて「はい、いくつ食べたよ」って、帰り(金を)置いてきますよね。
Q 小中学校の頃から、学校から帰って晩までという感じですね。ほかに面白いエピソードは?
配達行ってね。自転車でビール瓶…。ビールは昔、大瓶で二十四本入りなんですよ。で、木箱で。それを自転車に乗っけて配達してたんですよ。ただやっぱりひっくり返したことが何度もありますね。親父にひっぱたかれましたよ、よく。
ただ、おふくろがよく小遣いくれたんで、やっぱり小遣いには苦労しなかったですね。手伝っていれば小遣いはくれましたからね。だから、お勤め人の子どもたちよりは、どっちかって言うと余裕がありましたね。
Q その余裕があったお金は何に使ったんですか?
どしたんでしょうね(笑)。おごったりしてましたね、けっこうね。
配達の苦労と楽しみ
Q 配達がやっぱりメイン?
メインですね。うちは飲食店もけっこう卸してたんで。業務用卸がほとんどだったんで、売り上げの。七割が業務用卸ですから。だからよく一般家庭にみなさん、御用聞き行きますよね。それはしたことないんですよ。要するにほとんど店売りと、あとは電話注文のお客さんからの配達で、ほとんどが業務用です。
Q 具体的にはどういったところに?
スナックとかバーだとか。昔はバーですよね。あとは飲み屋さん、食堂。けっこう卸してましたよ。
Q 野方で?
野方です。ほとんど野方。遠くは練馬。あと小金井まで行きしたね、高校時代は。武蔵小金井に練馬の店のチェーン店であったんですよ。そこへ。でも、そこに行くのが楽しみでしたね。一番息抜きができるんで。車の運転が好きだったし、小金井まで行くのが楽しくて。
Q 車の免許が取れたのが十七歳、十八歳で…。
十六ですね。十六で軽四輪(軽乗用車運転免許)、取れたんですよ。十六で軽四輪取れて、バイクをまず取って。で、私、四月五日生まれなんで、誰よりも早く免許取れたんですよ。だからみんな羨ましがってましたね。一年違いますからね。
Q バイク免許取ってからはカブで配達?
カブで配達。
Q 二年後ぐらいには自動車運転免許取って?
うん、取って。そしたら自動二輪も取れたんで。その頃、普通免許か軽四輪取ったら自動二輪が付いてきたんですよ。自動二輪とそれから原付と二種類しかなかった時があったんですよ。そん時に普通免許取ってると、皆さん、自動二輪が付いてたんですよ。今、原付しかつかないでしょ。原付が五十cc未満。その上が全部自動二輪だった。二個しかなかったの。今は、原付と原付二種(小型限定普通二輪)、軽二輪、それから中型、大型ってあるじゃないですか。もう大型をもらえたんですよ、すぐに。
Q じゃ、ナナハンも乗れた?
うん、高校時代、ナナハン乗ってました。高校時代、買ってもらいました、ナナハン。
Q ナナハンで配達は行かない?
もちろん、無理です。
Q 業績がすごくよかった?
よかったです。もうだって、毎年、毎年、何もしなくても売り上げ伸びてた時代ですからね。
Q 高校生の時は昭和四十年くらい。
ですね。でも、高校時代は真面目にしたよ、本当に。まっすぐ帰ってきましたもん。もうおふくろが大変だから。親父、しないんだもん、何にも。うちの親父はそういう人だったから。
Q お父様は運転免許持ってないってことでしたが配達は?
自転車でやってましたね。んでほら、結局、業務用卸が多くなったら、もう自転車じゃ無理じゃないですか。だからもう親父は、ほとんど配達も何もしないで。そんで、免許は取りに行ったんだけど、その当時は教習所の教官ってけっこう生意気だったんですよね。今、教習所の先生ってけっこう優しいらしいんだけど、足蹴っ飛ばされたりなんだかんだで、喧嘩して帰ってきちゃったんですよ。で、取らなかったんです、結局。でも原付だけは持ってたんだ。原付だけはね。カブだけは持ってた。
Q そうすると朝からお店をあけても配達する人がいない?
そうです。だから帰ってこなきゃいけない。
Q ご家族以外に、雇ってた方は?
いなかったですね。暮れになると忙しいんで、アルバイト、けっこう頼みましたね。まかないの人も頼んだし。だから、それだけ忙しかったんですよね、暮れはね。
それで、休みがないんですよ。元旦だけですよ、休み。で、私が中学、高校になったらやっと月に一回休むようになって。それで、私が店に入ってからは、一日、十日、二十日が休みだったんですけど、親父、シャッター開けては行っちゃうんですよ、どっかへ。「店やれ」ってことなんですよ。そういう時代ですよ、僕らの時代は。だから休みがなくても、全然…。
今でもうちの社員なんかがやっぱり「三連休、夏休み欲しいです」とかなんとかって言ってるけど、「お前よ。俺ら一年に一回しか休まなかったんだぞ」って。そういうこと、今はもう考えられないですけど。だから私、休みがあんまりあると困るんですよね。居場所がなくてどうしようかなと思う。
Q 小学校の頃から手伝いが始まって毎日?
毎日です。
Q 高校生になるとバイクや車で配達。それも毎日。休みは正月だけ。
毎日。正月だけ。勉強なんかする暇ないですよね。そうでもないかな。
Q 勉強する暇もなければ遊ぶ間もない?
うん、遊ぶ間があんまりないですね。ほんとになかったです。僕らの時代、ほんとみんなそうですよ。まして、うちなんか特に休みなしですもんね。
酒屋が多かった時代
Q 記憶にある一番昔で結構ですが、酒屋さんは野方に何軒くらいあったんですか?
えっとね、十三軒ありました。野方五班って、若宮一丁目、それから丸山二丁目。それから野方の五丁目、野方三丁目、野方の六丁目か、駅向こう。それで十三軒ありましたから。今はもう、「おおくま」さんだけですね。その十三軒のうち残ってんのは、あそこ(野方三丁目の)おおくまさんだけですね。
Q みなさん仲良く共存共栄?
してましたね。ほんとにけっこうトラブルもなく、仲良くやってましたね。牽制しながら。ただ、値崩れし始めたらもうしょうがなかったですね。
Q それはいつ頃からですか?
いや、もう二十年ぐらい前かもしれないですね。でもう、私そん時「酒屋は駄目になるな」と思いましたよ。だから他の仕事始めようと思ってすぐに考えましたけどね。そのまましがみついてたってしょうがないっていうんで。だから、息子も、私、大学行けなかったんで大学行かせて、もうまるっきり別の仕事につかせましたけどね。後には絶対継がせなかったですね。
Q よくスーパーができてきた時に個人商店は打撃を受けたという話を聞きますが、やっぱりありましたか?
スーパーの時はまだ酒は免許、スーパーに降りてなかったんですよ。要するに免許制だったから、その免許がなくなった時に、やっぱり緩和されてきた時に、距離制限がなくなった時はもうダメだったですね。百メートルくらいあったですよ、距離制限が。だから、距離制限が(なくなったことが)一番あれだったですね。で、資格もけっこううるさかったですよね。
Q それは乗り越えても、値崩れの時は?
あぁもう、値崩れがひどかったです。で、コンビニもみんな種類置いて、それで、缶ビールをバンと下げたでしょ。そん時に「あぁ、もう駄目だな」と思ったですね。やっぱり大量仕入れするから。メーカーが卸ちゃいますからね。
Q そこが転機になった。
そう。だから、昔はメーカーの営業なんかもしょっちゅう来てたんだけど、もう来なくなりましたよね。だんだん値崩れしてからはね。いじめられるから、今度、逆に。「お前んとこ、あんなところに卸すからいけないんだ」って始まるから。でも、私はもう諦めてたから、で、「あ、酒屋やめられるな」と思ったんです。それが嬉しかったですよ、僕は。もう商売が嫌いだったから。嫌で嫌でね、もうしょうがなかったからね。
Q 忙しくて嫌になったんですか?
忙しくなくて。要するに、もう自分に合わなかったんですよね。酒屋って商売は、その頃、値崩れしてないから、お客さんに気に入られなきゃ。どこ行っても同じ値段で買えるじゃないですか。だからもう、頭の下げっぱなしですよ。
今だと違いますよ。今はだってねぇ、コンビニでもなんでもさ、言うことは言うけどさ、気持ちが入ってないもんね。マニュアル通りだもんね、なんでもかんでも。ああいうことになっちゃいますよね。
面白いことに、昔は(客が)酒屋さんに来て、欲しいもんがないとするじゃないですか。例えばビールね。「キリンの一番搾りが欲しいんだけど、あ、ないや」と。「売り切れちゃった」と。「じゃ、ラガーでいいや」って帰るんですよね。買ってくれんですよ、必ず。対面だから。ところがコンビニだと帰っちゃうでしょ。だから、昔のお客さんてやっぱりそういう気持ちが伝わってたんですよね。「ないか。じゃこれでいいや」ってことがあったんですよね。それ、わかりますよね?
Q わかります。「おたくで買うんだよ」という…。
そう、だからただでは帰れない、と。そういう付き合いですよね。
配達先でのエピソード
Q 配達先で、時代を表すようなエピソードはありますか?
「紹介するから、嫁さんもらわないか?」って言われたことがあったですよ。まだほんとに十代ぐらいの時にね。老けてたからね。「いい子がいるんだけど。右向けって言うとずっと右向いてる子がいるんだけど」。「勘弁してください。まだ早いですよ」って言って断ったこともありますよね。
ただ、飲食店でもうツケが多くて。ツケが多くて逃げられたのも多いですよ。
Q どうするんですか、そういう場合は?
もうしょうがないですよね。もう追いかけてもどうしようもないですもんね。どんどんどんどん逃げて。居抜きで入った店ってのは、もう敬遠しましたね。ほら、お金なくて入ってくるじゃないですか。で、酒屋からひと月借りれば商売できちゃう。だからそういうことがあるんでね。けっこう引っ掛かりましたよ。
Q 泣き寝入りするしかないですか?
もうしょうがないですね。もう、捕まえられないですもんね。だから、たくさん売ってても支払いに苦労しましたよ。
で、だんだん売り上げが落ちてきて暇になってきたら支払いが楽になりましたよ。ツケがないから。もうその頃はツケにはしなかったですからね。だって百万円くらい使うところもあったもんね、その当時。三十年ぐらい前でも。月に。飲食店で。それが逃げたら大変ですよね。でも大きなとこはそういうことなかったので、ありがたいですけどね。
瓶の話
Q 昔は来店するお客さんが瓶を持ってくる?
そう。瓶を持って来て、瓶に移し替えて。面白い話って言えば、その瓶という話でね、ビール瓶が一本五円したんですよ。売るとね。酒屋さんに持ってくと。
Q 昭和三十年くらい?
そうです。今でも五円なんですよ。でも、もう今は皆さん捨ててますよね。酒屋もってけば、瓶はほんとはみんな買ってくれたんです。だからビール瓶が五円で、ビールの小瓶が三円。で、一升瓶が十円。で、醤油の瓶が三十円したんですよ。その頃。もう六十年ぐらい前。その値段なんですよ。だから、うちの醤油の瓶を子分に持たして、隣の酒屋へ売りに行かして、小遣い稼いでましたよ。醤油の瓶、一本三十円ですもん。
Q 三十円?
三十円。だって六十年前の三十円ですよ。
Q でかいですね。
でかいですよ。だって百円ったら大金持ちですよ、自分たち、子どもたち、百円持ってれば。
Q 醤油の瓶だけなぜ高かったんですか?
ニリットル瓶なんですよ。一升瓶は1.8でしょ。ニリットル瓶なんですよ。どういうわけだかニリットルなんですよ。醤油の瓶がたんなかったんでしょうね。作れば三十円じゃできないですからね。
ソース屋さん
あと、ソース屋さんがいっぱいありましたよ。ソース屋さん。おソース、おソース。そっから仕入れてましたよ。大和町にあったし、それから若宮にもありましたよ、ソース屋さんが。私たちの年代はソース屋さん。今ほら、ブルドックソースとかなんとかソースってあるじゃないですか。もうまるっきり違うソース。
Q ソースをそこで作ってる?
作ってる。で、うちへ一升瓶、買いに来るんですよ。一升瓶、欲しくて。詰めるんで。
Q 一升瓶を買いに来る?
買いに来る。それ詰めて、私たちはそのソースを仕入れるんですよ。ソースも量り売りですから。それは瓶で。一升瓶から枡にあけたりして。
Q どういうソースなんですか?
普通のウスターソースですよ。ウスターソースとかとんかつソース、作ってましたよ。
Q ソース専門店?
鈴木さんというソース屋さんがね、四中の真ん前にあったんですよ。あと、若宮一丁目に小暮さんというソース屋さんがあったんですよ。
Q いつ頃までソース屋さんはあったんでしょう?
えーっと…、四十年くらい前、四十年代ぐらいかなぁ。
醤油さんのオート三輪
あと醤油屋さんも、石神井公園のそばにあったんですよ。で、オート三輪で持って来んですよ、醤油を。運んで来る。醤油屋があったんです。それで、オート三輪で来るでしょ。そすと、車好きだから、小学校の時、どうしても乗っけてもらいたいわけですよ。そすと、横にパタンと倒れる木の椅子がついてるですよ、ちっちゃな。それに乗っけてもらって、ちょっと近所一周してもらえるのが…。待ってんですよ、醤油屋さんが来んのを。それ乗っけてもらった。オート三輪で来ましたよ。
で、その頃、お酒の一升瓶って、木の箱で十本入りだったんですよ。今は六本入りなんですよ、プラスチックの箱で。ビールも大瓶で二十四本入りですから、木の箱で。それ、重いもんですよ。
Q 青梅街道沿いに味噌屋さんや醤油屋さんが多かったとききましたけど、そちらから仕入れることは?
なかったですね。石神井公園とこの醤油屋さんが来ましたね。
一升瓶が三本売れればご飯が食べられた時代
Q 先ほど一日に一升瓶が二、三本売れればご飯食べられたというお話がありましたが、それはいつ頃の時代までだったんでしょうか?
えーっと、私がきいたのは小学校の低学年の時ですよね。
Q 昭和三十年代はじめ。酒がまだ貴重な頃?
だって、一日の売り上げが確か、覚えてるのは…、三千円ぐらいですよ。そんなことがあったですよ。
前、小学校の先生に聞かれたんですよ。「渡辺君ちはいくらぐらいの売り上げがあるのかな?」って言ったら、おふくろに聞いたら「(一日)三千円ぐらいだって言っときな」言われたのを今でも覚えてますよ、それ。小学校の時。
Q 昔の小学校の調査というのは、今では考えられないようなプライベートなことをどんどん…。
そう、平気で聞いてましたよね。ちゃんと答えましたね。今じゃね。そんなこと聞かないですけどね。
Q 当時の三千円、今でいうと。
三万円くらいじゃないですか。もっといくかなぁ。
Q じゃ、お酒一本が?
まぁ千円ぐらいしたですね。だから三本売れば…。それも量り(売り)だともっと儲かるわけですよ。あの、樽で来るでしょ。一斗樽でくる。一斗樽とか二斗樽ってありますよね。そすっと、"量り込み“って、木が吸っちゃうからってんで余分に入ってんですよ。その分が儲けなんですよ、また。
Q 量り込み?
うん、量り込み。だから例えば一斗樽に、まぁ五合分(ごんごうぶん)ぐらいは余分に入ってるわけですよ。一斗樽いっぱいじゃないわけですよね。まぁこの辺で一斗だとすると、ちょっと余分に入ってんです。量り込みっていうの。「量り込み、どのぐらいあんの?」っていう話はよく聞いてましたよ、親父が。
Q 樽は買いに行かれたんですか?
配達です。配達で来ましたね、トラックが。だから、初荷なんてすごかったですよ。初荷なんていうと幟(のぼり)立って、問屋さんの若い衆が法被(はっぴ)着てみんな来たんですよ。トラック乗ってね、みんなトラックの上に乗ってきて、法被着て、「初荷」って旗立てて、で、うちの前へバーッと降ろすわけですよ。それで手を打つわけですよ。いつ頃までだったかなぁ。いい時代でしたよね。商人の本当にいい時代。
Q そういう時の写真は残ってますか?
あぁ、ないですね。電気屋さんもあったはずですよ、初荷ってのが。縁起もんなんですよね、初荷ってね。法被着てね。
Q 小学校中学校の時から働きづめで、遊ぶ暇がなかったんじゃないですか?
まぁでもそんなことなかったですけどね。まぁ一応、時間もくれたしね。
ただ本当に勉強してると、「何やってんだ!商人の子ども、息子にゃ学問はいらねぇ」って親父に言われたんだから。「高校も行かなくていい!」って言われたんだから。
Q 高校も?
「高校も行かなくていい」って言われたの。とんでもない時代ですよ、本当に。
Q 何ができればいいと?
要するに、あと継いでくれればいい。偉くなることない、と。
Q 全部俺が教えるから?
そういうこと。
Q そう言われて渡辺さんは勉強を…?
しなかった(笑)でも、高校はね、商業高校でも、私、都立は受けなかったんですよ。都立は商業高校っていうと男女共学で、女性が多いでしょ。嫌だったんですよ。もぅ女の子が嫌で嫌で。あの時代は嫌だったんですよ。どういうわけだか。
Q 昭和三十九年頃ですか?
そう。男子校行きましたよ。そんで、あの学生服が嫌で。そこは背広だったんですよ。夏は霜降りのグレーの背広で、で、冬は黒い背広で黒いネクタイで通ってたんですよ。それが着たくて。だからもうどこでもいいと思ったんですよ。女子がいなくて、で、水道橋だっていうから、「あ、電車乗って時間稼げるな」と思って。
Q 女子がいなくて背広来て、電車で通える…。
そんで模型が好きだったんで、水道橋に大きな模型屋があったんですよ。そこへ寄れるってのが嬉しかったんですけど、寄れなかったですね。学校がうるさくて。規則が厳しくて。「寄っちゃいけない、どこも」って。
Q その模型屋さんというのはプラモデルみたいな?
プラモデル関係。ソリッドモデルとかね。
Q 本格的な鉄道模型?
いや僕は飛行機です。
Q 航空自衛隊?
航空自衛隊か戦車隊か、どっちかですね。でも、パイロットだとか操縦士になるつもりなかったんですよ。エンジニアになりたかった。要するに機関をやりたかったんですよね。機械が好きだったんで。
Q いってらした学校は機械系があった?
ないです。商業高校だから。一切関係ないです。だって商業高校しか行かしてくんないんだもん。
昭和二十年代後半と思われる渡辺酒店の店頭。三輪車は渡辺さんが使っていたもの。自転車は父が配達で使っていたもの。
味噌樽が並び、量りが見える。看板も賑やか。向かって右は瓦屋があった(現在は和菓子の光進堂)。
左には「にれの木文庫」という貸本屋があり、渡辺さんもよく通ったという。
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