渡辺勲さん「家業・酒屋の手伝い、遊び、みつわ通り」2 子どもの頃の遊び

↑「山本別荘(邸)」は軽井沢三笠ホテルを建設したことでも知られる山本直良氏の邸宅。
妙正寺川から野方WIZの辺りまで敷地があり、今は西側の団地と東側の御屋敷に分かれる。
渡辺さんが子どもの頃は進駐軍に接収され将校が住んでいた。(鈴木英司さん提供)

山本別荘の沼

Q 小学校の頃はどういう遊びを? 忙しいお手伝いの合間を縫って…。

近所のガキ大将とよく遊んでました。今の五丁目にある野方の団地ありますよね。あそこが山本別荘っていって、子どもの時、進駐軍の将校が住んでたんですよ。野方のバス停(現在の南口バスロータリー)までは、ずっと土地だったらしいんですよね。で、その頃、あそこに沼があって、その沼にコイがいっぱいいて、それを銛(もり)でついたり。で、よく追いかけられましたよ、警察官からも。

Q まず侵入しなければ沼に行けない。

侵入はできましたよ、簡単に。ただ、そこに書生さんみたいなのがいて、それが空気銃で撃たれました、僕ら。一人、手に当たったことがありますよ、空気銃が。今じゃ考えられないですよね、空気銃を人に向けて撃つなんてね。

Q プラスチックの玉じゃなくて?

そういうんじゃなくて、鉛の玉です。スズメ撃ったりする。空気銃です。ポンプ式のね。

Q 危ないですね。

危ないです。それ撃ったんですよ。手に当たってやつがいたんですよ。

Q ケガは大丈夫だった?

大丈夫ですね。

Q コイを銛で…。

刺したり。

Q それは何の目的で?

どうしちゃったんだろうね、それね。どうしちゃったんだろうねと思うね、本当にね。

Q 食べるわけではない?

ない。もちろん食べるわけではないんだけど、遊びでやったんですよね。錦鯉だと思いますけどね。あ、黒いコイがいましたよ、けっこう。沼みたくなってたからね。で、芝生でね、一面。あとヒマラヤ杉がいっぱいで。もう大変な…。団地だって大きいですもんね。あそこにあったんですよ、沼。塀を乗り越えてね、入ってって。

あと、やってないかな。自転車の電気の発電機でさ、魚、ビッて痺れさせんの。自転車こぐとライトの発電機、ついてますよね。タイヤこすってあかりつけるやつ。あれを自転車の後ろっかわ方につけて、ひっくり返して、手でガーッとこぐんですよ、回すんですよ。そすと電気が出るから、ビュッてやると、その間の魚が浮いてくんですよ。誰に教わったんだか知らないけど、やってましたよ。

↑ 山本別荘の沼(クリックすると拡大します)

ガキ大将に鍛えられる

まあ要するにあの頃はガキ大将がいて、いろんなことを教えてくれましたよね。

Q ガキ大将は歳は上?

ええもう、私が一番下ぐらいだった。もう六つ上ぐらいだから。

Q 渡辺さんが小学校の時には…。

もう中学校ぐらいか。それとも小学校入る前からずっと連れて歩いてくれましたよ。

Q その方は有名なガキ大将?

有名ですね。(名前を)今言うとまずいんじゃないですか。元気ですから、ご存命で。うちの町会に残ってますから。

その人にあれですよ。東伏見に早大プールって早稲田のプールがあったんですよ。競泳プールが。飛び込みのプールとそれから深い競泳用のプールと。あと子どもが遊べるようなやつ、膝までやつがあったんですけども、その時にも五、六人で連れてってもらって、嬉しくてついてったら、プールに放り込まれたんですよ。それで泳ぎを覚えましたよ、おかげさまで。今そんなことやったら大変でしょ?だってさ、泣こうがなにしようが構わず放り込まれたから。でも、それで泳ぎを覚えちゃいましたね。でも、遊んでもらいたいから、またやられてもまた行くんですよ。ついて行くんですよ。

Q ガキ大将さんの周りには、何人ぐらいいつも?

五、六人はいつもいましたよ。で、派閥があってね。グループで喧嘩したりね。ありましたよ。

Q 一つの派閥は五、六人何ですか?

大体そうですね。だから、私なんかも若宮の方にはいかなかったですよ。行くとそのグループがいるから。お互いにあまり行かないんですよ。

Q どれぐらいの縄張りを持ってたんですか?

大体、今の野方五丁目ぐらいじゃないですかね。向こうは若宮一丁目ぐらいのテリトリーがあったですよね。

でもね、よく可愛がってくれましたよ。よくねぇ、鉄くず拾ったり、お金になったんで。あと、電線工事やってると、切りっぱしを持ってきちゃうんですよ。そすと、赤線をむいて売りに行くでしょ。そすと、ちゃんと分けてくれましたよ。俺たち何もしない、見張り役なんだけど、見張り役にもちゃんと分けてくれましたよ。

私が小学校上がる前ですよ、そんなの。彼はもう中学校一年ぐらいから大人になっちゃったから。だから、私はニ、三年ぐらいかな、くっついて歩いたのは。

旧中野刑務所のMPに脅される

Q (新井の)石田さんは中野刑務所を進駐軍が接収していた時に、薬きょうを拾って売っていた人がいたと話していましたが。

私たち、その薬きょうが拾えるっていって、やっぱりそのグループで行ったんですよ。したら、MPがほら、(塀の上の見張り台から)わざとこうやって(銃を)構えるわけですよ。脅すわけですよ。だからもうそれが怖くて逃げてきましたよ。

Q じゃその記憶ありますか?

あります、あります。草ぼうぼうのとこでね。だから、あの当時、アメリカの軍っていうのはすごいね。鷹揚なんですね、結構ね。玉、日本じゃ自衛隊でも一発でも無くせば大変な騒ぎじゃないですか。あいつら平気で撃ってんだもんね。

Q 進駐軍の刑務所は三十一年まであったという話がありますから、渡辺さんは七歳ですね。その記憶があるんですね。

あります。で、おっかなかった。なんしろ怖かった。ほんとに撃たれるという話も聞いてるからさ。だからもうそれは大変なこと。でも、薬きょうじゃなくて玉を拾いに行こうって言われたの。玉より薬きょうなら上に落っこってんもんね、ぽろぽろね。

玉って撃った玉。鉛の。私はだから玉っていう頭があって行ったんですよ。実際は薬きょうかもしんないですね。薬きょうは真鍮(しんちゅう)だからお金になるもんね。

毎年のように氾濫していた妙正寺川

Q あとはどんな場所が遊び場だったんですか? 妙正寺川は?

あ、妙正寺川はね、毎年洪水して、ほとんど。で、四中下りる坂道あるじゃないですか。あの半分ぐらいまでは水が来てましたね。毎年のように。そすと、上に養魚場みたいなのがあって、金魚だとかコイだとかが岸のほうに来るんですよ。あれ、すくってましたよ。それを飼ったんだかどうだかは知らないけど、すくいましたよ。逃げてきてんのがね。あの頃はよく氾濫してましたよ。本当に。

Q よく昭和三十三年の狩野川台風の時の被害が写真が残ってますけど、それ以外にも?

うん、結構多かったです。ちょっともう、大水が出たらすぐですもんね。だって川幅、狭かったし。で、護岸も草ぼうぼうで。僕らの時は魚も何もいない…汚れてましたけど、私たちの先輩は泳いでたって言ってましたね。

Q そうすると昭和三十年代前半は、もう川は汚かった?

汚かった、もう。それで、ドジョウぐらいはいましたね。そんであと、屠殺場があったっていう話は聞きました?

Q 大和町の方?

そうそう。あそこで廃液なんかを流すから水が急に汚れて。あの上はまだきれいだったんですよね。

Q 渡辺さんご自身は妙正寺川で泳いだことは?

ないです。私はもう全然…、泳げる状態じゃなかったですね。六中の校歌で「水清き妙正寺川」っていう歌詞があるんですよ。我々それん時、笑ってましたもんね。

野方団地のとこに、まだ川幅が狭かったんで、向かいの家の専用の木の橋がありましたよ。山本さんのお屋敷?のとこの反対っかわに渡る住まいの住まいのとこに橋があったですよ。木の橋が。手作りの橋が。でもあれもしょっちゅう流されたんだと思いますけどね。

Q それくらい狭かった?

狭かったですね。

Q その分、ちょっと大雨が降ると…。

すぐ水が出ちゃう。

Q 妙正寺川から見ると野方は高い…。

野方…、ここは一番高いとこですよ。中島肉屋さんが一番高い。この辺じゃ。もう四方に落ちてますからね、中島肉屋さんのとろは。だから、みつわ通りってけっこう、一番高いとこなんですよ。だから、うちあたりが水浸しになったら、ほとんど沈んじゃいますよ。

Q 今のWIZのところは?

郵便局があったですね。郵便局の屋根登って怒られましたよ。大きな郵便局でしたよ。だいたいあのぐらいの土地が郵便局でしたからね。町役場のあとが郵便局かな。一番最初は町役場かもしれないですね。私は郵便局しか覚えてないんですよ。そんときの石碑があったのかな。あそこに石碑があったんですよね。それが川向こう、(新)沼栄橋の川向こうに立ってますよね、今。(元野方南自治会長の)石川さんがやったんですよね。向こうへ持って行こう、と。沼栄橋の大和町側だから、こっち、西っかわ。沼栄橋渡った、バス通りのね。右っかわにちっちゃな公園があるんですよ。そこに建ってますよ。私たちその時、宮司さん呼んでお祓いしてもらって建てたんですよね。

Q それは今、工事のバリケードの中ですか?

ああ、中ですね。

丸山「へいわだい球場」で野球

Q あと遊び場で思い出す場所は? 例えば、野球をやっていた場所とか。

野球はやってましたね。丸山です。丸山に空き地がけっこうあったんで。けっこう畑もあったし芝生もあったしで、丸山はもう本当に。私たちは「中新井、中新井」って言ったんですけどね。よく遊び行きましたよ。けっこう広い空き地があって、そんで、隣、その家の塀があったんですよ。僕ら「へいわだい」って言ってたんですよ。平和台球場って言って。それで遊んでましたよ、野球を。そして、下級生とやると、負けると下級生ぶん殴ってましたよ。小学校ん時。「あいつ生意気だ」って。負けた腹いせにね。やっぱり同学年でチーム作るからね。

Q それは北原小のときの?

高学年の時ですよね。

Q 北原小のグランドで遊ぶということもあった?

いや、なかったですね。グランドで遊ぶってことはなかったですね。解放してなかったんじゃないかな。夏はプールはね、開放したけど、グランドはあの当時は開放してなかったかもしれない。覚えがない。で、まして児童館もなかったからね。

Q (今のように)フェンスか塀があったんですか?

いや、出入りできなかったでしょ。ぜんぜん学校で遊ぼうなんて気持ちはなかったね。

給食の脱脂粉乳

ただ、学校って言えば思い出すのは給食ですよね。給食で例の脱脂粉乳のミルクだったんですよ。私はあれは嫌いじゃなかったんですよ。周りはみんな「嫌いだ、嫌いだ」「美味しくない」とかって。私は平気で飲んでたんですよ。嫌いじゃなかったんですよ。何だか、飲んでると浮いちゃう感じがしてね。自分だけ。

それでその脱脂粉乳をビール瓶だかなんかの瓶持ってきて、入れてる子がいるんですよ、同級生で。で、「どうしたの?」って言ったら「うん、弟がとりにくんだ」と。学校行ってない弟がそれを、要するにお昼がわりでしょ。とりに来るからってあげてたの、覚えてますよ。だからそういう貧しいうちもあったんですよ、あの頃は。まだまだね、昭和三十年代だからね。

Q まだまだバラツキがあった。

ありましたよ。まだまだ。だって学校の先生の家に遊び行った時に、小学校の時に、もうほんとにボロボロのアパートに住んでましたよね。「学校の先生って、こんなとこに住むのかよ」って感じだったですね。だから、給料安かったんですね。あの頃はね。びっくりしましたよ。「こんなアパート住んでんだ」と思ってね。

Q 野方は戦火は免れて、基本的には戦前と同じかたちで残った?

そうですね。だから、区画整理ができてないですもんね。全然ね。ありがたいことにはね、もうぜんぜん焼けてなかったから。

 

・・・Part3へ続く


*ホームページ、小冊子、動画など媒体の特性や条件にあわせて編集し、一部表現を調整している箇所があります。
*オーラルヒストリー(口述歴史)はあくまで「個人の記憶」であり歴史を正確に伝えるものではありません。そのため、基本的に話し手の感じ方・表現・言い回しに基づいて表記しています。また、歴史的な事柄については諸説存在するものもあります。ご了承ください。

 

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源資NOHC 代表理事

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。(一社)NOHC代表理事。中野区野方在住。

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