NOHC理事・川目龍男「妙正寺川周辺の水にまつわる風景」

NOHC理事・川目龍男 
作家・写真家。昭和27年沼袋一丁目生まれ。江古田小学校、区立第七中学校卒業。
2020年11月19日収録(聞き手:北原、源)

 

北原 川目さんの地元ということで、ご自身の歴史と地域性を重ね合わせて取材をしたいと思います。今ちょうど江古田橋を渡るところですけれども、やっぱりこの地域といえば川ですよね。子ども時代の思い出を含めましてお話をお願いします。

川目 今日あれやこれやと話すと長くなってしまいますので、今おっしゃっていただいたように川を始め、水というテーマに絞りまして、私の幼い頃って言いますか、小学校高学年くらいまでの記憶をお話ししてみたいと思います。

南から蛇行する妙正寺川と北から流れてくる江古田川の合流地点。松が丘2丁目北側は高台になっていて、
川向うの関東バス営業所をはじめ、見晴らしがよい場所。第七中の南側の道路は新青梅街道
(なかの便利地図より)

松が丘(旧片山)北側の高台

北原 これ今、ちょっと階段を上がってますけれど、片山?

川目 この辺そうですね。地名も「片山」って昔言ったんですね。松が丘っていう地名はかなり新しいと思いますね。何年からなったか、ちょっと定かじゃないんですが。

北原 ここはいい散歩道ですよね。

川目 そうなんですよ。ここが大好きでね。昔、犬飼ってる頃はここは絶好の散歩コースでありましたね。ちょうど関東バスの車庫が見えてますけど、私の子ども時代はこんなに高くはなかったですが、それでもちょっとした崖でね。子どもからしてみると、恐怖の場所だったんです、ここは。今も水量が結構多いですけど、当時はこの倍以上ありましたからね。

北原 関東バスの駐車場、これはもう子どもの頃からありました?

川目 ありましたね。ちょうど歴史の道路でもある、新青梅街道も見えてますし。私の子どもの頃はこんなたくさん建物なかったですから、江古田小学校も見えたし、向こうに中野療養所のちょっとした森が見えましてね。それはそれは見晴らしのいいとこでしたね。豊島園がこないだなくなりましたけど、あそこが花火を夏にあげるじゃないですか。毎週ね。ここ絶好の花火見物の場所だった。

北原 建物がだいぶたちましたからね。

川目 でも見えてたみたいですよ。最後の花火までは。

北原 この散歩道は子どもの頃からこれありました?

川目 ありました。それでこの上にこんなに民家がなかったですから、この土手だってもうむき出しの、こういうところに草が生えてる泥の壁だったんです。それで木の種類もおそらく武蔵野の雑木林の昔の当時のまんまの木が、ナラとかクヌギとかね、その種類だと思うんですがね。あとクスノキとかね。そういう林というか、森というか。

哲学堂公園も今はもう間引きしちゃって見通しがよくなってしまいましたんでね。かえってこっちの方が当時の面影が残ってると思います。そこにも並行して道が続いてんですが、そこがすごいいい眺めだったんです。

松が丘2丁目北側の崖。左下に妙正寺川が流れる。

北原 じゃこの辺は子ども時代は絶好の遊び場?

川目 遊び場でしたね。それこそ江原の方の小学生たちと、ここで戦争ごっこを。

北原 ちょうど今、この妙正寺川と江古田川の合流地点ですよね。

川目 現在も、あれカルガモですけどね。カモの絶好の餌場というか、夜の休み場になってます。水量も多いでしょ。

北原 多いですね。

川目 当時、この江古田川も水量が多かったんです。江古田川は昔は「中新井川」って言いまして。今の豊玉の二丁目かな、あのあたりが中新井っていう地名だったらしいですね。

北原 それで中新井川と。

川目 ええ。いつの間にか知らないうちに江古田川になっちゃったんですけどね。これが中野療養所の周りをぐるっと囲むように流れてここに合流するんですけどね。まあ本当にここは絶好の遊び場でしたね。

北原 この辺はあれですか。昔も川はここを流れていて、この川の深さはやっぱりこんなではなかったですか?

川目 もうぜんぜん浅かったですね。今、そこの江古田川、あれよりもまだ浅いくらい。あれでもけっこう掘っちゃいましたからね。

北原 魚とかはどうだったんですか?

川目 魚がいたんですよ。合流点だから結構釣れたんじゃないですかね。それで、おととしか、なんかの新聞に、神田川をアユが遡上したっていう記事が出てましたんで、たぶん一日ここで見てるといるんじゃないかと思いますね。ここら辺にも。こんだけ綺麗なら魚住めますからね。

もう(対岸の)公園も昔とほとんど変わってないですね。あんな遊器具はなかったですけどね。


妙正寺川と江古田川の合流地点(年代別・中野区提供、クリックすると拡大します)

↑ 昭和初期 妙正寺川・江古田公園護岸工事
手前が妙正寺川

↑ 昭和28年5月 河川改修前(左から江古田川、右から妙正寺川)

↑ 昭和37年(左から江古田川、右から妙正寺川。昭和34年7月護岸工事完成)

昭和三十年代の妙正寺川の氾濫

↓ 妙正寺川流域 昭和38年8月の集中豪雨による水害(中野区提供 クリックすると拡大します)

北原 子ども時代に台風とか、今で言う集中豪雨みたいなものでの思い出はありますか?

川目 ええ、ありますね。私が小学校二、三年だったと思うんですが、家の真ん前まで水が来たんですよ。朝日通りも水かぶって。ギリギリだったんです、うちの前が。沼袋駅前にあった書店は本が半分ぐらいダメになっちゃったんです。大損害を受けましたてね。そういう大損害を及ぼしたのはそれだけだと思いますけどね。でも、けっこう中野の下町っていうか、中野中央とか、高円寺の方とか、あの辺はけっこう被害が多かったみたいですよね。今でもけっこう多いみたいなんです。

もう一つ思い出がありましてね。水が轟々と流れてるのを子ども心に見に行きたいんですよ。そすと、上流から家畜が流れてきたりね。もうすごい数のヘビが、流木に巻き付きながら流れてきたんですよ。そういう思い出がありまして。だからきっと、川っぷちでのんびり遊んでたヘビがそのまま流れて来ちゃった。

北原 みんな巻き込まれて流れてきちゃった…。

川目 …じゃないかと思うんですけどね。助けることもできないですもんね。

北原 これ立派な木ですけど。

川目 これはクスノキですね。この太いやつはね。手前はカエデの仲間ですね。クスノキが多いですね、やっぱり中野区は。あの百観音の境内にも太い木がありますけどね。こういう木はいいですよね、常緑樹で。

北原 ちょうど紅葉が、これから見ものかなっていう感じでいいですね。

川目 今年はどうなんでしょうね。よくどんぐりを拾いに来ましたよ、子どもの頃。今でも落ちてると思いますけどね。

□ 天神橋に移動

豊かな水の恩恵を受けた地域

川目 さっき台風の話が出ましたけど、雨量もたぶん多かったと思いますね。

北原 昔の方が?

川目 ええ、子どもの頃がね。それで毎年、真夏は必ずと言っていいほど夕方の三時頃に雷が鳴りましてね、夕立が降ったんです。四十分とか小一時間、降りましてね。それで、サーッと気温が下がってね。そういうのがたいだいほぼ毎日、真夏は続いたんですよ。そういうのがまた蒸発して、また次の日、雲をよんで…。で、それが降るのが、ちょうど妙正寺川沿岸と中井の方だけらしいんです。だから中野区が「天気、今日晴れ」って言ってもね、我々は傘持って出かけたんです。三時頃、必ず降るから。ちょっと我慢すりゃやむんですけど。天気予報があてになんない地形と言いますかね。

そんなことで結局、地下にしみこむ水もあったし、それこそ西の方から地下に一回しみこんだ水が湧きだしてね、もう本当、私の家なんかは二メートルも掘ると水が湧いてきてね。五メートルも掘ったら本当に冷たい、おいしい水が湧いてきたんです。だから、近くの豆腐屋とか染物屋とかもみんなその水を利用してね。銭湯も多いっていうのもそのせいだと思うんですけどね。

それで子どもの頃の遊び場にもなったんですけどね。空襲でお風呂屋さんが、銭湯が随分やられたんです。煙突があるから敵は工場かと思って、集中的に爆弾を落としたらしくてね。ですからこの辺にも何ヶ所かありましたし、ガストとかあの辺に原っぱがいっぱいあったんですよ。戦争あとの空き地ですよね。で、たいていそれが銭湯の跡地だったんです。だから綺麗なタイル画が無残に壊れた廃墟が結構ありましたね。それが格好の遊び場になったんですよ。不謹慎でしたけど。

北原 このあたり人たちの暮らしの中では、この妙正寺川とか江古田川は、暮らしの中では切り離せない、そういうものだったんですかね。

川目 そうでしたよね。一般のサラリーマンになるともうほとんど関係なかったでしょうけど、まだ農家がいっぱいあったし、半農半サラリーマンみたいな人もいたから、そういう人たちはここで野菜なんか洗ったりね、自分とこの、抜いた畑のさつま芋とか茄子とかね、大根とか洗っていましたしね。

あと染物屋は布をさらしたんですよ、この流れで。というのは、染色する時に糊付けして、色がほかに染み込まないとこは糊を塗ってったわけなんで、それを落とすのに水道じゃ大変ですから川で洗ってね。そすと、みんなさらしてる光景をこういうところから覗くと、流れた糊を食べにフナとかドジョウとか魚が集まってくるんです。「あれをなんとか捕まえられないか?」って悪ガキどもが結託してやったり…。

北原 染物屋さんっていうのは中野のこの辺りと、沼袋とかあの辺から落合にかけて…。

川目 そうですね、今でも残ってますもんね、落合は。中井かな。というのは関東大震災とか第二次大戦の空襲で燃えちゃったり、工場が壊れちゃった染物屋さんがこの川の水を求めて引っ越してきたらしいんですね。ですからこの界隈にも私が知ってるだけでも三軒ありましたからね。あそこで染物をしてましてね。

僕らは遊びって言うと缶蹴りとか鬼ごっことか、それ以外に狭い空き地を見つけて野球。野球がちょうど流行ってる頃で、王・長嶋の時代ですからね。畑の角っこなんかで野球やってると、肥溜めがありまして、そこに落っこっちゃったやつがいてね。それを妙正寺川に引っ張ってって、臭いやつ洗ってると、下の方で染物流してる人が「バカヤロー!染物についちゃうだろ!」って怒られました。

北原 のどかな時代だったんだね。

川目 名前を言ってもいいんですが、ちょっと差し支えますので言いませんけど。そういうこともありましたね。川の恩恵じゃないですけど。

北原 あぁ川の恩恵を受けてるわけね。

川目 けっこう受けてますね。

北原 たまには暴れ川になって、台風の水害ももたらしたけども、全体としてはやっぱり…。

川目 でも釣りをやった覚えってあんまりないんですよね。魚はいましたけどね。

北原 昔、中野あたりの人たちが妙正寺川にホタルを見に来たっていう話を聞いたりすることがあるんですけど、ホタルいましたか?

川目 いましたね。うすらぼんやりとして、うちの庭にも飛んで来てましたからね。川で生まれたやつが来たんでしょうね。

北原 当時は護岸工事もそれほどしてかったでしょうから。

自然環境を憂う

川目 今はバードウオッチャーの人気の的になってるカワセミ。あれ綺麗でしょ。あれがいるんですよ、けっこう。哲学堂の池にも来るんですけど、あれはあんまり手放しで喜べるっていう話じゃないんですよ。と申しますのは、本来ならカワセミが自由に住みたい場所っていうのがこの上流にあったんですけど、そこが今、逆に開発で自然が無くなっちゃって。川を暗渠にしちゃったり。それで仕方なく水を求めて、善福寺川の下流とかこういうとこに来てるんですよね。本来、カワセミたちはもっと自然の豊かなとこで本当はいたいんでしょうけど、向こうにいられなくなっちゃって来てるだけの話でね。だから僕の子どもの頃、カワセミ…。

北原 いなかったでしょ?

川目 ええ、いなかったと思います。

北原 最近の話ですよね。

川目 みんな喜んでるでしょ。「自然が豊かになったから来たんだ」って言ってるけど、それは逆の話なんですね。だから、僕の子どもの頃は、逆にフクロウとかね、猛禽類がいたんですよ。小型のね。

北原 あぁ、ツミね。

川目 ツミとかサシバとかね。

北原 今でもいますもんね。

川目 それでこの川が昔、妙正寺川じゃなくて、水源の井草の地名にちなんで「井草川」って呼んでたんですよ。大正から昭和の初め頃までだと思うんですけどね。その頃の名残と言うかそういう意味で、野鳥の数も多かったんですけどね。あっちの方にいたやつが飛んできたって話があったね。
例の歴代将軍が鷹狩りをやった時に、狙いっていうのはウズラとかキジとかばっかりじゃなくて「鶴」が本当は一番の目的だったみたいなんです。だからタンチョウヅルもいたんですよ、沼袋に。八代将軍吉宗の時代はね。おそらくトキもいたんじゃないですか。そういう意味だったら回復して欲しいですけどね。そういうものがまた住めるようなね…。

五十ミリ改修時のエピソード

北原 今からちょうど二十年ぐらい前だね。そんなに昔の話ではないんだけれども、「五十ミリ改修」って川底を下げたでしょ。最初にやった箇所が、中野区ではこの箇所だったんだよね。

川目 あ、そうなんですか?

北原 それでこの川をまっすぐに変えてったんですよね。それで、このまま行って、あの向こう側から左に曲がって哲学堂方面に行きますよね。あそこのカーブをね、川のカーブを緩やかにしたんですよね。

川目 あ、そういえば二重になってますね。下に…。

北原 なってるでしょ? で、結局、緩やかにしたときに桜の木を二本ぐらい切ったんですよ。それを切る切らないで地域の意見が分かれたりはしたんだけれども、最終的にはこの近所の人達が水害にあうその大変さを考えれば…。

川目 やむを得ないと…。

北原 やっぱり河川整備は再優先だということで、最終的にはそういう結論に達して、惜しまれながらも桜を切って、それで今日のようになってるんですよね。
その時に「この川に生き物を取り戻そう」っていう取り組みがありましてね。特にこのところは下がコンクリートではなくて、石を敷き詰めた河床になってましたね。それで「流されない魚は何か?」っていう話になって、ヨシノボリっていうのをここに放流したんです。

川目 ハゼの仲間の。

北原 放流したんですよ。それでね、だけどいつか知らない間にみんなどっか行っちゃったんだけどね。

川目 サギ類に食われちゃったんじゃないですか?

北原 結果的にはたぶん今はヨシノボリいないと思うんで、ほかでヨシノボリ探すのも大変だから、この辺にはもういないと思いますけどね。

川目 あれはやっぱりきれいな水を好みますからね。

北原 その取り組みを東京都第三建設事務所がやったの、覚えてますよ。

川目 それが何年くらい前っておっしゃいました?

北原 それが二十年ぐらい前だと思いますよ。

川目 そんな昔じゃないですね。

北原 ここ河川改修してからたぶん二十年ぐらい…。二十年かもうちょっとかぐらいですよ、せいぜい。いつも気になってはいたんだけど。「あの魚どうしたんだろう」って。

川目 ヨシノボリはある程度流れがあって、清い水じゃないとたぶん住めないと思うんですよね。同じ川魚で有名なヤマメとかハヤとか、ウグイですけど、この程度の川だとちょっと無理かもしれないですね。

北原 さっきカワセミの話がありましたよね。カワセミはこの川の何箇所かに春は巣を作って、子育てに…。

川目 ああいう護岸に開いている穴っぽこにね…。

北原 作ってっていう話ですよね。食べる魚が何かいうのが関心があるところなんだけれど、実はドジョウが多いんですよ。なぜかドジョウをいつも子どもに食べさせてる。シャッターチャンスでカメラで収めた人、何人もいるわけなんだけども、見るとだいたいドジョウですね。ドジョウは間違いなくいるってことで…。

川目 ドジョウが住める環境にするためには、川底が泥じゃないとね。石じゃダメなんですよ。ある程度、所々にアシ、ヨシなんかを植える泥地帯を作っといてあげないと、多分ダメです。

北原 できるだけ自然に近い形で、改修したところはやろうということで整備はしたみたいですね。だから多少はその効果があるのかなという気はしますね。

川目 今、セキレイなんですけどね、キセキレイ。あれも珍しいですよ。ハクセキレイは昔からいるんですけどね。キセキレイも来るようになりましたね、今ね。水のとこにいました。

北原 自然が戻ってくるというのはいいもんですよね。

川目 そうですね。なにしろ、私が子どもの頃は水がそこら中から流れてた。そういう穴があいてますでしょ。あれみんな水が流れてましたよ。所々が茶色い水が。鉄分を含んだ土質だったんじゃないですか。


哲学堂公園周辺

北原 妙正寺川の江古田橋を出発して哲学堂公園近くの下田橋までやって参りました。哲学堂公園についてちょっとお話ししていただければありがたいんですが。

川目 私が子どもの頃は、木も今の三倍から五倍ぐらいありましたね。密集してましてね。それこそ昼間でもちょっと薄暗いような感じでね。その木が多かったことも理由なんですけども、水が湧きだしてましてね。滝のように流れてたんですね。

それで、今、中野区立第七中学校っていうんですけど、私の十年ぐらい先輩たちは、まだプールがない頃ね。ここの川の流れを、妙正寺川をせき止めて、水を1mか2mぐらい増やして、そこでプールの代わりに泳いだっていう話があるんです。水も綺麗だったし、それだけ水量も多かったんでしょうね。

北原 この場所から哲学堂公園を見ますと、ずいぶん木が大きくなってるのかなと思うんだけれども、あの中にいろんな建築物がありますよね。その建築物やなんかは、昔はこの辺から見えたのか、どうなんでしょうね?

川目 少なくとも、六角塔は見えましたよ。それが目印で来たぐらいですからね。それとこのずっと奥になりますけど、「水の塔」(野方配水塔)ってあるんですよ。外部の人たちはその塔のことを哲学堂だと思ったんですよ。

北原 昔、配水塔はけっこう目立ってたでしょ?

川目 目立ってましたよ。そこに片山橋っていう、車も通れる橋がありますが、あそこから全部見えたんです。

北原 この辺も遊び場だったってことですか?

川目 もう遊びましたね。それこそ悪ガキどもは、門閉めたからもよじ登って入ってって遊んだやつもいるんじゃないかと思うんですよね。
それで、下の方の昔、オリエンタル工業って…。

北原 あぁ、オリエンタル写真工業。ありましたね。

川目 「イーグル」っていう写真の印画紙を製作してた工場がありましてね。すごい水を使うんですね、あれ。印画紙をつくるっていうのはね。きれいな水がボンボン、ドブに流れてましたけどね。

そのちょうど川の反対側に、今でもありますけど池がありましてね。その池も、なんていうのかもっと自然の池で、沼地みたいになってたんですよ。それで魚がいっぱいいましてね。それをよく捕りに行ったんですよ。

イーグルは、いい印画紙だったんですよ。いつのまにかなくなっちゃったんですね。フィルムとか印画紙はきれいな水が必要なんですね。水道水は塩素を含んでるからダメらしいですね。

なんせ私が子どもの頃は、水がそこら中に湧いてましたよ。崖んとこに。もちろん、川っぷちのところは水が滝のように流れてましたからね。水が豊富なところで、飲んだ覚えもありますよ。手で汲んで。そのくらいに水が豊富なところでね。考えてみたら、そんな高い山じゃないしね。やっぱり木のおかげだったんでしょうね、あれは。

(終了)

[メモ]インタビューの冒頭に出てくる「松が丘」は昭和37年頃までは「片山」という地名だったそうです。中野区「松が丘片山町会」ホームページには「片山の今昔」「松が丘の想い出」「江戸時代の片山」などが掲載されており、この地域が江戸時代に野菜の名産地だったこと、オリエンタル写真工業があった土地には大正末期にプール・釣り堀・料理屋などを配した「野方遊楽園」があったこと、冬に天然氷を製造し丘陵の横穴の氷室に貯蔵してあった話など、興味深い歴史や生活の記憶を知ることができます。

「松が丘片山町会ホームページ」はこちらをクリック

 

*ホームページ、小冊子、動画など媒体の特性や条件にあわせて編集し、一部表現を調整している箇所があります。
*オーラルヒストリー(口述歴史)はあくまで「個人の記憶」であり歴史を正確に伝えるものではありません。そのため、基本的に話し手の感じ方・表現・言い回しに基づいて表記しています。また、歴史的な事柄については諸説存在するものもあります。ご了承ください。

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源資NOHC 代表

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。中野区野方在住。

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