渡辺勲さん「家業・酒屋の手伝い、遊び、みつわ通り」3・・・みつわ通り商店街の想い出、父から聞いた戦中戦後の話、母のこと、町会

Q お店(とご自宅)があるのはみつわ通り。記憶にある一番古い頃はどんな様子でしたか?

そうですね、なんか売り出しやった時に、うちの親父とかみんながチンドン屋みたいなことをやったことがありますよ。

Q みなさんで?

商店の人がみなさんで。

あと、みつわ通りの「みつわ」っていう語源が、大和町、野方、あと若宮のお客さんを呼び込むんで三つの和(輪)なんですって。それで「みつわ」っていう、語源があったんですって。ただ、ひらがなのみつわ通りなんですよ。

そんでみつわ通りのおもしろいことはね、初代。我々は二代目でしょ。今ほとんど二代目。三代目なんかあんまりないんだけど、初代から二代目、離婚した人いないんですよ。それは有名な話。

Q 初代というのはお父様の代?

そう。

Q そうすると昭和の初期に…。

来た人ですね。

Q それ以前はなかった?

あったみたいですけど…。一番栄えたっていう話も聞くんですよね。その頃からね。
なんかここは、この本町通りからみつわ通りって、よく馬車が通ったって言ってたね。集積所が中野の、新井の方に、あの辺、ちっちゃい運送屋さんが多いじゃないですか。あれ、馬車屋さんだったんですよ、みんな。それで集まるんですよ。だから刑務所通りんとこ、あるじゃないですか。あの辺は、もう馬車屋さんだったんですよ。で、ここをしょっちゅう通ったんで。運送屋さんです。で、今、運送屋さん、何軒かありますよね。今度通ってみるとびっくりしますよ。「あ、これも運送屋さんだ、これも運送屋さんだ」。

Q 馬車屋さんには馬がいて、荷車と…。

そうそう、荷車と。

Q それが本町通りとみつわ通りをよく通った?

ここをよく通ってった。だからこの通りは栄えたんですよね。

Q 渡辺さんはその馬車は?

見たことないです。

Q 物心ついたときの商店街はけっこう賑やかだったんですか?

賑やかだったですね。もうだいたいお店がずらーっと入ってましたよ。いろんな店が入ってましたね。

Q 記憶に残っているのは?

映画館がありましたよ。西武座があったでしょ。西武座が今度、耳鼻咽喉科の奥平先生んところ、あそこがスーパーだったんですよ。パープルセンターっていうスーパーで、二階が映画館だったんですよ。西武座がこっちへ移って。二階で。映画館もあったし、マッサージ屋さんもあった。昔、本当のマッサージ屋さんがあった。要するに医者の紹介で行くようなね。

Q お使いに行かされることは?

姉がいたから、姉がほとんど行きましたね。で、覚えてるのが、ビキニ環礁で原(水)爆実験ありましたよね。で、第五福龍丸がどうのって、マグロ船が……。そん時にマグロがすごい安かったんですよ。それは(放射能を)浴びてないやつなんだけど。うちの姉が「魚屋さんが叩き売りしてて、それで安かったから買ってきた」って言ったらおふくろが怒ってね。「ダメだよ、原爆マグロなんて買ってくんじゃない!」。今でも思い出しますよ。それだけは覚えてる、よく。姉が怒られたの。風評被害ですよね。

Q お買い物はどこで?

同じ商店街ですよ、みんな。魚は魚屋さん。もう決まってましたね。通りにあったからね、いろいろ。
で、宴会場も三つあった。関沢食堂さんと、それから玉寿司さんと、あと若宮に魚仁さんっていう魚屋さんがあった。三つの宴会場があったの、二階に。みんな、結婚式をしてくると、町内の人をそこへ、どっかへ呼ぶわけ。で、町会の人を呼んで改めてまた近所のお披露目するわけ。私も玉寿司さんでやった。帰ってきてからね。お座敷があって、二階が全部、お座敷で。料理出してくれて。

父から聞いた戦中戦後の話

私も三十過ぎまでは酒飲まなかったんですよ。親父が酒飲むと暴れるんで。散々苦労したんですよ。けっこう暴れん坊だったです。近所で有名だったですよ。それでもう嫌で。私も、所帯持ったのは二十四で所帯持ったんだけど「酒飲まないよ」って。「苦労させないよ」って一緒になったんだけど、三十過ぎてから親父の代わりにどっか宴会行ったんですよ。したら、けっこう食べたことないうまいもんが出てくるんで、「これ、酒飲んだほうが得だな」と思い始めて。でも大酒は飲まないですね。

Q 意外ですね。じゃ、お祭りの時とかは特別に…。

それはもうね、それはやっぱり周りと一緒に付き合わないと。うちじゃ晩酌しないんですよ。女房に苦労させたから。うちの親父で。

Q 奥様がお世話を?

そう、だって酔っぱらって崩れてると「迎えに来い!」って言うんだもん。俺が行くと喧嘩になるじゃないですか。うちのかみさんがいつも迎えに行って、なだめてなだめて。よくやってくれましたよ。

Q お父様はどこで飲んでた?

お得意さん、みんなだもん。みんなお得意さんじゃない? だから、一軒や二軒じゃすまないんだよ。だから、うちのおふくろ言ってたよ。「儲け全部、飲んじゃう」って(笑)。

Q 飲むのも仕事のうちだ、と。

まあそうなんだけど、ちょっとひどすぎたね。うちん中で火鉢にひっくり返すんだから。今じゃ考えらんないですよ。

でも具合悪くなってから一週間で、全然こっちに苦労かけないで(亡くなった)。だから「帳尻合わせたな」と思いましたよ。だから、いい人ほど、あとで帳尻合わせらんないですよ。「あ、すごい帳尻合わせちゃったな」って。だって、私四十で両親いないですからね。私、うちの親父が四十の時の子だから。兵隊から帰ってきてだから。

Q お父様にもっと聴いておけばよかったというのはどういったことですか?

戦争の話だね。兵隊の時の話を聞きたかったんだけどね。聞けなかったね。
でも、うちの親父はいい付き合いしてたのかな。戦友がけっこう遊び来てましたよ。ずっと戦友がちょこちょこ遊びに来てましたよね、うちへ。

Q 満州に行かれていた?

満州ですね。

Q 満州に行かれてたのは三十歳くらいの時?

そうですね。終戦の時にもう三十五ですからね。ってことは古い兵隊なんですよ。だからそれでも、ポツダム兵長だから、要するに上等兵で終わっちゃったんだよね。普通ね、軍曹だとか、その辺まで行くんだけど下士官までいかなかったね。兵隊で終わっちゃったけど。ただ、炊事にいたっていうからワルだったんだよね。炊事当番っていうのは悪いんですよ、炊事班長っていうのは。炊事っていうのはもうどうしようもないのがいっぱいいたんですよ。そこへ入ってて炊事にいたって言うから、よほどだったんだなと思って。
で、若い頃から相撲、素人相撲でけっこう強かったらしいんですよね。体ガッチリしてて。だから割と幅きかせてたんじゃないですか。歳も歳だったし。古い兵隊だから。

Q 戦争の話はあまりしなかった?

あんまりしなかったんですよね。ただ、面白いことが、要するに満州で中国軍と戦ったでしょ。「頭なんか出してねえよ。こうやって(両腕を上げて銃を)撃ってたよ」って言ってましたね。「こうやって撃ってた、こうやって撃ってた」っつったよ。で、「食べ物には苦労しなかった」っつったね。やっぱり「満州はいろんなものが食べられたから」ってね。
でも親父の話だと「優秀だったから、本土決戦用に内地に帰って来たんだ。俺は優秀な兵隊だったんだ」って言ったけど、うちのおふくろは笑ってたけどね。

Q 炊事隊でも戦闘には出る?

炊事でもやっぱり戦闘には出るんですよね。だから、戦闘に出たあとの炊事かもしれないし、わからないんだよね、それがね。

Q 本土決戦だということは昭和十九年頃に戻ってきた?

そう、松山にいたんですって。で、「釜山から大豆の上に座ってきた」っつったね。大豆。輸送船で来たから、大豆を積み込んで来て、日本に持ってくるために。それで島づたいに来たって、ずーっと。島が見えるようなとこ来たって。よく潜水艦にやられなかったなと思いますね。だから運がいいんですよね、本当に。で、翌日除隊ですからね。終戦の翌日。

Q 松山に来られて…。

で、終戦になって、八月十五日。十六日にはうちへ帰っちゃってますからね。古い兵隊だから真っ先に帰っちゃうんですよ。「あと、お前らやっとけ!」ってわけで。ところが残った人たちはトラックに荷物積んだりして、もう大変な物資持って帰っちゃったんだって。うちの親父は「毛布二枚ぐらいしか持ってこなかった」っつった。
松山で待機して陣地作ってたんですって。

Q そこは戦闘が激しくならなかった?

激しくならなかった。海岸でしょ、きっとね。陣地作ってたんだから。

(除隊して帰ってきてからは)闇屋やってたみたいですよ。闇屋。闇屋で稼いでやってたらしいですよ。統制されてたでしょ、お酒でもなんでも。で、うちの親父が、一つ聞いたのが面白い話があんですよ。一斗缶あるでしょ。一斗缶開けるとこれくらいの穴があいてますよね。そこにはんだ付けでずーっとパイプを通すんですってね。で、裏っかわから穴あけて。そすと本体には酒入れてんですって。アルコールを。その筒ん中にはお酢を入れるんですって。お酢は統制じゃなかったらしいんですよ。そして、検閲にかかると、「お酢ですよ」って言うと、指突っ込んで(なめて)、「あ、これお酢だ」。それで相当儲けたらしいですよ。賢いですよ。

アルコールって、メチルとエチルってあって、メチルってのは工業用のアルコールで、エチルっていうのは植物性のアルコールなんですよ。だから、焼酎なんてのはエチル。メチルってのは工業用アルコールだから目が見えなくなるんですよ。
うちの親父がやっぱり「アルコールが入った」と言われて、呼ばれて行く時になんかおできができちゃって、それがすごく腫れてて痛くて、「俺は今日はやめとくわ」って行かなかったんですって。それで助かった。他の人は死んじゃった。その話はおふくろが言ってた。飲み会があったんですって。アルコールがない時代だから。なんでも飲んじゃうから。消毒用のアルコールってのも飲めちゃうわけですよ。

Q 間違ってメチルを飲んで、みんな死んじゃった。

そう。

Q 飲みに行ってたら死んでいた…。お酒が好きで。渡辺さんとは対照的ですね。

反面教師ですよ。はっきり言って、私にはね。よくおふくろが耐えてたなと思いますよ。

母の想い出

Q お母様はご苦労されて。

苦労しましたね。本当に苦労しましたね。

Q どんな方だったんですか?

我慢はよかったけど、明るい人でしたね。実に明るい人だった。そうやってごまかしてたんだろうね。本当に明るく、いいおふくろでしたよね。歌の好きでね。今でも覚えてる、森昌子の「先生」をよく歌ってましたよ。カラオケのない時代だからね、まだ。

Q 渡辺さんの芸達者はお母様譲り?

いやいや。そうかも知んない。親父も好きでしたよ、歌。青江三奈の歌をよく歌ってました。「池袋の夜」なんか。ウケてましたよ。

Q 歌が好きなご家族。

弟が民謡やってましたから。少年民謡やってましたから。上手かったですよ。隣の光進堂のお父さんが、民謡会のお弟子さんだったんですよ。で、うちの弟を、「歌うまいから民謡やらないか」ってしょっちゅう連れてってくれたんですよ。兄弟弟子なんですよ。光進堂のお父さんとうちの弟は。先生が同じなんで。今でもカラオケ歌わせると、演歌上手いですよね。だからやっぱり芸能一家かな、どっちかと言うとね。好きですね。弟は三味線もやったし。

町会

Q 町会は何年やられているんですか?

私は四十年は町会の役員やってます。一番古いですよ。だから(先代の石川さんが)亡くなった時に、私よりも年配の人が一杯いたんだけど、皆さんなかなか受けられなくて。で、私、石川さんの会計やってたんですよ。で、もうしょっちゅう石川さんとは、そこに呼ばれてしょっちゅう…。私も三十前後から町会の役員やってましたから。それでもう一番古いから、それで「会計だから何でも知ってんだろう」ってわけで。でも、俺よりも一回り上の人はばっかだからね、みんな。それでも「渡辺さん、古いんだからやってよ」って言われて、「じゃ、まぁいいか」ってわけで請けたんだけど、まぁ皆さんよくやってくれますよ。よく言うこと聞いてくれますよ。

Q 石川さんのお名前はよく出てきますね。

この人、四十四年やってましたよ。八十八歳まで。だから、四十四歳から八十八歳までやってたんです。面白い話だよね。よくやってましたよ。だから知らない人いないですよ。そのあとだから。どこ行っても「あ、石川さんのあとか?」って言われますよ。

Q 石川さんのエピソードはありますか?

ここにね、東京都の課長を呼びましたね。「誰ですか?」って言ったら、「東京都の課長、ちょっと用あるから呼んだんだよ」って。二人で来てそこで話をしてたけど、普通来ないですよ、東京都の課長さんは。でしょ。この人、東京都の町会連合会の一番だから。で、全日本の二番だったから。だから、オリンピックの招致の時、この人、演説してましたもん。「おい、石原君!」なんてやってんだもん。俺らの前で。大したもんですよね。

Q 野方の町会には土地ごとの個性みたいなものはあるんですか?

ありますね。まして、この辺は商店街でしょ。やっぱり違いますよね。雰囲気が全然。商店やってた人が会員、役員になったりしてるから。ましてや私なんか、ここで生まれてるから。みんな小中、先輩なんですよね、みんな。

小山さんなんか小中高、先輩ですからね。隆さん。二年先輩ですからね。高校も一緒です。それで高校受験した時に、あの人、立会人だったんですよね。試験の。生徒が何人か立会いなんですよ。要するにカンニングしてるかどうか見てるわけですよね。監督官ですね。そしたらその日の晩に「おい、受かってたよ」って言ってきてくれた。だから(合格発表を)見に行かないで済んだ。そこしか受けなかったんですけどね。「おい、受かってたよ」なんて言って来てくれてね。もう、すぐわかって、翌日見に行かないで済んだんですよ。あの人は剣道部のキャプテンだったんですよ。小山さん、剣道やってました。おっかなかったですよ。だって二年違うんだからね。三年生だから。
岩窪さんもうちの真ん前だからね。ずーっとだからね。みんなそうよ。ほんと、役員みんな。

Q 濃いですね。

濃いですね、たしかにね。で、昔は野方一丁目町会だったから、ここは。北と一緒だったのよ。

Q 町名が一丁目だった?

一丁目だった。向こうも。そんで一緒だった。お祭りも一緒でしょ。そんで、昭和十七年かな。(軍の命令で)「南と北に分かれろ」と。で、野方南町会、北町会になったの。
それで、戦後、町会を解体させられちゃったじゃないですか。GHQに。そんで、昭和二十七年から野方南自治会になったんですよ。だから歴史はすごい古いんですよ、前からだからね。

Q 北町会と南自治会に分かれたのはわりと最近かと思っていました。

昭和十七年。戦争中です。軍の命令で分かれたですね。軍の命令聞くよりしょうがないですもんね。なんでもかんでもね。

Q GHQが撤収して改めて…。

改めて、町会作っていいよ、と。それまではダメだったんですよね。町会が要するに戦争に協力してましたからね、みんなね。

(終了)
 

*ホームページ、小冊子、動画など媒体の特性や条件にあわせて編集し、一部表現を調整している箇所があります。
*オーラルヒストリー(口述歴史)はあくまで「個人の記憶」であり歴史を正確に伝えるものではありません。そのため、基本的に話し手の感じ方・表現・言い回しに基づいて表記しています。また、歴史的な事柄については諸説存在するものもあります。ご了承ください。

 


 

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源資NOHC 代表理事

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。(一社)NOHC代表理事。中野区野方在住。

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