NOHC理事・北原奉昭 「故郷・伊那の大自然を駆け回った少年時代」1・・・東京に出てきた頃、小学校の修学旅行、思い出深い中野の店、古書の魅力

NOHC理事・北原奉昭インタビュー(2020年11月12日収録)
昭和二十年生まれ。長野県伊那市出身。元中野区議、古書店主。沼袋親和会会長。
 

Q 長野から東京に出てこられたのは大学生の時ですか?

そうですね。大学受験に最初失敗し、とりあえず予備校に入るわけですけれども、その下宿先が私のいとこの京橋の北原照久という、『なんでも鑑定団』でそこそこ有名になりましたけれど、あの実家がちょうど東京駅の八重洲口から出て五分ぐらいの所にありまして、そこに居候しまして、そこで予備校に通っていたというのが最初の東京暮らしですね。

そのあと大学に合格して高円寺で少し住んで、杉並の荻窪に八年ぐらい。そのあと結婚を機に中野区に住むわけですけれども、最初に中野の新井に住みました。子どもが生まれるということで中野区の江古田四丁目に引っ越しまして、そのあと、古書店を開店するということで沼袋の三丁目に古書店を開業いたしまして、それからおよそ四十七年間、この中野に住んでおります。しかも沼袋ですね、ほとんどが。杉並の分を入れますと、およそ東京暮らしが五十年というところになると思ってます。

Q お生まれは?

昭和二十年七月ですから終戦の一ケ月ちょっと前ということになります。長野県の現在伊那市と呼ばれるところで生まれました。

それで長野県の伊那と中野区がどんな繋がりがあるのか関心がありまして調べたことがあります。実は中野・杉並には二十三区の中では突出して長野県の特に中信・南信と呼ばれる地域、諏訪とか松本とか伊那とか飯田の人たちが大変多いことが分かりました。私が今、中野区で入っている「中野区長野県人会」、あるいは、杉並区、非常に県人会の活動が活発な地域でもありまして、特に中野区の長野県人会は発足から八十五年が経っている、と。だから戦前に創立された県人会でありまして、今なお活動を続けております。

そんなにたくさん長野から出てきた理由といたしまして、やっぱり中央線の影響があるのかなというふうに思っております。一方、長野県でも北信と言われる地域、長野市とか上田市とか小諸市、今で言うと佐久市ですね。この辺の人たちは上野へ出て参りますので、比較的その沿線の方に多く住まわれということだろうと思っています。

小学校の修学旅行での驚き(東京・横浜・江ノ島・鎌倉)

小学校の修学旅行は東京・横浜・江ノ島・鎌倉でしたから、その頃は蒸気機関車に乗ってきました。蒸気機関車の迫力を見るのも初めて、乗るのも初めてというような子どもたちがたくさんおりましたから、本当に東京に来た修学旅行は、子どもたちにとってはまさに衝撃的であり、特に私としては横浜港のあの大きな船ですね。あの船を見た時にびっくりしたし、さらに小学校の時、初めて海というものを見ましたから、江ノ島の由比ヶ浜海岸を尋ねたんですが、海の水が塩辛かったっていうの初めてあの時、実際にすくって舐めて体感したというようなことを覚えてますね。

Q 小学校の修学旅行?

小学校の修学旅行です。あの頃は、私の同級生は、男子が九名、女子が7名、全部で十六名のクラスでしたから、まぁ家族が旅行に来るようなものですよね。それに先生が二人ついておりまして、修学旅行として東京まで出て来れるっていうのはよっぽど幸せでありまして、とにかく東京にいる親戚の人が宿舎に訪ねて来るぐらいの勢いでしたから、ああいう時代があったんだなあというふうに今でも考えております。

Q 上京してきた子どもたちに会いに来るという感じですか?

そういうことですね。おじ、おばなんか訪ねて来ましてね、お菓子をいっぱいもらったの覚えてまして、嬉しかったですね。食糧事情があまり良くなかった時代ですから。

Q 昭和二十年のお生まれですから昭和三十二年くらいのことですね。

そうですね。

Q それで高校を卒業されて東京に出てこられたのが昭和三十九年。その頃の東京の雰囲気は?

新宿駅の西口、あのあたりもまだ建物が全然できてない、そういう時代でしたね。京王プラザホテルが少しずつ出てくるのか。まだ浄水場の跡地が見渡せたぐらいの時代でしたよ。ただその時に中野っていうのが私の記憶の中ではまだなかったですね。ただ、単なる通過駅というふうな感じでしたね。

Q 結婚して中野に住まわれることになったんですね?

たぶん三十ぐらいだったかな。結婚した年が「中野サンプラザ」ができた年でしたから。今から四十六、七年くらい前ですよね。あれが落成しましてね、素晴らしい施設で、あそこで結婚式挙げるのが夢みたいな時代でありまして、たしか春先に完成したと思うんですが、十一月の上旬にあそこで結婚式を挙げましたね。僕自身。サンプラザで。出来たてのサンプラザでものすごい綺麗だったですよ。

Q すごくご縁がありますね。

そうなんですよね。それから中野の魅力にはまりましてね。今までずっと中野で暮らしておりますけれど、都市部のところもすごい百貨店があるわけではないし、遊び場がものすごくあるわけではないけれども、ちょうど規模のいいまちだと思ってまして、住み心地はすごくいいですね。

(最初、新井に住んだのは)今、新井に「ライフ」というスーパーがあるんですけど、あそこの近くでしたね。「ライフ」のところは、原っぱみたいな空き地でしたね。大きな空き地でして、よく車を駐車できて非常に便利だったというふうに思ってまして。

印象に残っているお店(ヘビ屋さん、十月書房)

私は神田の神保町にひところ勤めましたから、その時に中野駅北口を出ると、今で言うサンモール、あそこをほんのわずか入ったところに「ヘビ屋さん」っていうのがありましてね。ヘビ屋さん、たぶん東京でもなかなかなかったと思いますよ、当時でも。蛇がいっぱいおりまして、マムシとかシマヘビがもう何十匹ってガラスケースの中に入っておりまして、なんかそこを通るたびにパワーをもらえるような気がしましてね。気になって仕方がなかった店の一つです。

Q そのヘビは販売されていたんですか?

たぶん粉末だとかそういうのでは売ってたと思いますけど、ヘビそのものを売ってたわけではないと思いますね。

Q じゃ漢方薬みたいにして?

漢方薬にして売られたんじゃないですかね。中野の今で言うサンモールの象徴みたいでしたよ。

もう一つ印象に残った店はヘビ屋さんの少し、今で言うと北側のブロードウェイ寄りですけれども、ヘビ屋さん右手で今度は左手に古書店がありました。その古本屋さんが大変ユニークな本屋さんで、とにかく床から上まで本を積み上げて売ってる感じでしたね。だから下の本を取ると上の本が落ちてくるというお店でして。おじいさんが座っておりましてね、番台みたいな感じでね。高いところに座ってまして、ずっと本を探したり読んだりしていると「ギョロリ」と見るという、典型的な昔気質の店主さんで印象に残ってきますね。結構ファンがおりましたね。多分、大学の先生とか作家の方もこのお店を利用したんじゃないですかね。

Q お店の名前を憶えていますか?

「十月書房」っていいましたね。

古書の魅力

Q さっき神保町にお勤めだったということでしたが、やはり古書店の関係ですか?

そうなんですね。ちょっとアルバイト。神田の神保町っていうのは古本のメッカでしたし、私、駿河台の中央大学に行ってましたんで、その関係で当時は学生運動が盛んでして、ロックアウトとかストライキが毎年行われるような状況で授業がないもんですから、古書店でアルバイトでもということで、専門書を扱うお店に入りましたね。そこで本の知識を積み上げてきたということになりますね。

Q 専門書と言うのはどういう分野ですか?

専門書は、これも古書の世界の話になっちゃうかもしれないんですけど、本というのはやっぱりその時々に発行されたものですが、古書というのはそれが蓄積されて何百年という歴史を経て今日まで来ておりましたね。だから古書籍で扱うのは、古いものですと戦国時代、それから江戸時代、明治、大正、昭和と歴史を辿って受け継がれてくるものが書籍・書物なんですね。その書物を大切に次の人達に伝えていく、書物そのものもすごく大事だと思うんですね、伝えてくことが。
今は大量発行時代が戦後から起きましたから、残っていく本と消えていく本が分かれておりますけれど、そうは言ってもその本の持ってる良さっていうのか、その固有の価値っていうのがあるんで、できるだけ残していくとこと。全部残すことはできませんので一冊、二冊は本当は保管されていくのが理想なんですけれども。現在発行されている本がすべて、歴史的に発行されてきた本が収容されてるのが国会図書館ということになるわけですよね。

で、非常に面白いです。今回、オーラルヒストリーというのは、口述っていうかおしゃべりをして記録して歴史をたどって行くんですけれども、それと並んで文字ですよね。書物として残っていく部分もあると思うんですね。その併用型がやっぱり歴史を継承する上で大事かな、と。
どちらかと言うと、今までは書物優先型であったわけですけども、これからは情報通信技術を使って次の世代にその人たちの思いを、口述する歴史を記録を残して伝えていくということが、まさに時代に合った対応の仕方ではないかなというふうには思ってますね。

Q 本そのものを残すという価値を若い頃から考え照らしたわけですね。北原さんのルーツをさかのぼると、やはり本に囲まれて育ったとか?

親父が骨董品が好きでしたよね。ただ本がそんな好きだったとは思えない。特に長野県の山の中には本がほとんど入ってきませんからね。都会ですと十分な調達ができたと思うんですけれど、やっぱり長野県では書籍が入ること自体がなかなか、私の子どもの頃はそうはなかったですね。ただうちの親父は、町の本屋さんにお願いして定期的に『小学1年生』とか『小学二年生』とか、ああいうのを定期的に、家族の中でも僕だけにその本を定期的にとってもらって、それを楽しみにしていたのを今でも覚えてます。だから多少は興味がそちらの方に、家庭の中では向いたのかなというふうに思ってますね。

…Part2に続く
 

*ホームページ、小冊子、動画など媒体の特性や条件にあわせて編集し、一部表現を調整している箇所があります。
*オーラルヒストリー(口述歴史)はあくまで「個人の記憶」であり歴史を正確に伝えるものではありません。そのため、基本的に話し手の感じ方・表現・言い回しに基づいて表記しています。また、歴史的な事柄については諸説存在するものもあります。ご了承ください。

 

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源資NOHC 代表

投稿者プロフィール

源 資(みなもとやすし)
昭和42年(1967年)富山市生まれ。県立富山高校、明治大学卒業。ゼネコン退社後、成り行きで映像制作の世界に入りそのまま制作ディレクターとなる。2018年度より中央区における地域オーラルヒストリー記録プロジェクト「佃島・月島百景」に参画。ポケット・クリエイション代表。中野区野方在住。

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